中国
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同時に「中国」は地理的な領域名だけではなく、王朝が現時点で支配している領土を意味するようにもなっていた[15]

「中国」の領域認識は支配領域の拡大縮小と連動した。

通例では清朝末期以前は、「中国」は通史的意味合いを持たないとされているが、通史的な用例がまったくないわけではない。例えば「宋史列傳194儒林五/胡安國」では「自古中國強盛如漢武帝、唐太宗」(いにしえより中国は漢武帝唐太宗の如く強く盛んであった)という記載があり、『魏志倭人伝』には「自古以來其使詣中國皆自稱大夫」(いにしえより以来、その使者が中国に来ると皆自分を大夫と称した)と記されている。

中華(ちゅうか)あるいは華夏(かか)という用語は、「優れた文化を持つ者」を意味し、漢民族の間で「中国」と同様の自称として用いられた。

「中心の国に住む優れた文化の担い手」という意味の「中華」には、地理的な意味に加えて、「漢民族のアイデンティティ」と「華夏文化の優越性」という要素が共存していた。

中華思想においては、天の意志を代行する皇帝が、その徳をもって統治し、もし徳を失えば新たな家系に替わる。「中国」「中華」に対して、その四方に居住する周辺民族は「夷狄」として対置される。

11世紀以降の宋から明にかけて、宋明理学は大いに流行し、再び華夷秩序が強調されるようになった。また宋や明では異国文化を珍重し、外国人が宮廷で登用されることも珍しくなかった[16]

中国の皇帝は西アジアの「諸王の王」に相当し、中国歴代王朝は、自らが人類で唯一の皇帝[注 3]であり、それ以外は中華世界における辺境に過ぎないという態度を取った。

対等な国が存在しないのだから、対等な関係の外交は存在せず、周辺民族との関係は全て朝貢という形式となる。逆に夷狄の中原を征服して中国に同化し、皇帝となることも可能であった。五胡十六国時代の諸国や南北朝時代の北朝、五代十国時代の突厥沙陀部系軍閥が中央権力の要を成した後半四代がこの典型である。しかし、の4王朝は、漢民族を支配して中華帝国の系統に属する王朝を作ったが、自民族の統治制度や文化も保持し続け、版図の一部を構成するに過ぎない漢民族地域に対しては、征服王朝として振る舞った。漢民族が直面したこのような現実に対して、宋学では華夷秩序が強調されるようになった。それに基づく、清の法律にも「外国人に対しては自分を中国と呼ぶ必要がある」と規定したことがある[17]

日本でも、江戸時代以前に大陸を「中国」と呼んだ事例は見られない(幕末、「満洲夷」が自分たち自身を「中国」と呼んでいると紹介されることはあった[18])。
近代的用法

この節は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論はノートを参照してください。(2015年11月)

代後半になると、近代化を果たした欧米列強の圧倒的国力が中国周辺にも波及し、中国は諸外国と対等な国際社会の一員として自己を再定義する必要に迫られた。「中国」という用語の近代的な主権国家の概念での使用は、1842年阿片戦争の敗北で清朝がイギリスと結んだ南京条約で、漢文の「中国」が使われた近代的な国際条約が最初であると知られている。

1689年に調印されたネルチンスク条約では、清朝の外交使臣が自らの身分を称する時に「中国」という用語を満洲語で使った。ここでいう中国とは、満洲人の故郷である満洲と旧明領を皇帝直轄地として統治したことから、この領域を「真ん中の国」という意味として中国(満洲語:.mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White"}????????
????? ドゥリンバイ・グルン、dulimbai gurun)と呼んだものである。

清朝政府が主権国家体制と国籍条例の重要性を認識し、国籍法に国名は「中国」を定めている[19]20世紀初期、梁啓超は『中国史叙論』において、自国の主権国家の国名をどうするか悩み、「支那」は外国人が呼んだもので自ら命名したものではなく、「中華」「中国」は自尊自大で非難される、といずれも欠点があるとした上で、その中から便宜的に「中国」の国名使用を提案した[20][21]

「中国」や「中国人」の範囲をどのように設定するかについては20世紀に入っても議論が続いた。たとえば共和革命のイデオローグ章炳麟は「中華民国解」[22]で中国の範囲を「先漢の郡県が設置された領域」、中国人を「黄帝の子孫」と定義、朝鮮(漢代に楽浪郡帯方郡が置かれた)やベトナムを「中華民国が絶対回復すべき領域」、ビルマを「ややこれに次ぐ領域」とする一方、モンゴル(蒙古)やチベット(西蔵)、東トルキスタン(回部)は、漢代に郡県は置かれず、「三荒服の地」であったことから、中華民国に参加するのも自立するのも、彼ら自身に任せるべき、としている。孫文ら革命派は、清の他族は既に漢民族に同化しており[23]、満洲や蒙古も服属すると主張した[24]。一方、梁啓超ら立憲派は、各民族を一つにすることで、清の現在の領土を維持すべきと反論した[25][26][27]。双方の論争の中で主張は接近し、清の現行領土を保ったうえで各エスニックグループを融合して「中華民族」という一つの民族を作り上げる構想ができた[27]

歴史学においては清を中国とするかについても議論がある。新清史は1990年代半ばに始まる歴史学的傾向であり、清王朝の満洲人王朝としての性質を強調している。以前の歴史観では中国(中華人民共和国)の歴史家を中心に漢人の力を強調し、清は中華王朝として満洲人と漢人が同化したこと、つまり「漢化」が大きな役割を果たしたとされていた。しかし1980年代から1990年代初頭にかけて、日本やアメリカの学者たちは満洲語やモンゴル語チベット語ロシア語等の漢字文献以外の文献と実地研究を重視し、満洲人は満洲語や伝統である騎射を保ち、それぞれの地域で異なった体制で統治していたため長期的支配が行えたとし、中華王朝よりも中央ユーラシア的な体制を強調している。満洲人の母語はアルタイ系言語である満洲語であったこと、広大な領域を有した領土の4分の3が非漢字圏であったことなど「清朝は秦・漢以来の中国王朝の伝統を引き継ぐ最後の中華王朝である」という一般に流布している視点は正確ではないとしており、[28]中華王朝という意味の中国はあくまで清の一部であり清は中国ではないとしている。

中国国内では「新清史」の学術的成果は認められつつあるものの、「漢化」を否定する主張については反対が根強くある。2016年においても劉文鵬が「内陸亜洲視野下的“新清史”研究」で「『新清史』は内陸アジアという地理的、文化的概念を政治的概念に置き換えたことにより中国の多民族的国家の正統性を批判している」としていることからも、現在の中国においては新清史の学術的価値は認められつつも、その主張には依然として反対する流れに変化は無いようである[29]。(New Qing Historyも参照)

辛亥革命では、「中華民国」と呼称されていたが[30]、共和勢力による政権獲得が現実のものとなっていくのに伴い、支那の独立という理想論は影を潜め、清朝1912年の段階まで連合していた「支那・満洲モンゴルチベット東トルキスタン」の範囲をそのまま枠組みとする「中国」で、近代的な国民国家の形成が目指されることとなった。しかし、そのような議論はモンゴルやチベット、東トルキスタンの人々の意思とは無関係に決められており[20]、実際には漢民族との連携を重視し始めた清朝に対する反発と諸外国の影響を受けて支那地域以外では自立の動きがみられ、これらの地域の再統合は中華人民共和国の成立後に持ち越される事になる。

「中国」「中華」は中華民国および中華人民共和国において、それぞれの国号となった。「中国」「中華」という用語が持っていた「漢民族のアイデンティティ」という要素は、「多民族の仲直りと統一」という要素として再構成され、多民族の構成員が主体となって建設した「中国文化の優越性」だけが共通分母として落ち着くようになった。そしてその持ち主という意味の「華人」「華僑」という呼称も生まれた。

この節には独自研究が含まれているおそれがあります。


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