この地は中国大陸最多の人口を有する漢民族を始めとして、長い間中国全土を支配していたモンゴル等の様々な民族による複数の王朝が出現と滅亡、戦乱と統一を繰り返してきた。そのため、地域の文明や民族を広く指し、紀元前からの文明・国家群の歴史の総体をも含めて用いられている。
清までの中国は、王朝の名前が対外・対内的な呼称として用いられていた[要出典]。しかし、19世紀半ばから中国も「世界の一体化」の流れに飲み込まれると、「中国」という用語が主権国家の自称として用いられるようになり、中華民国建国後は固有名詞としての性格を濃くしていった。
日本では、伝統的に黄河流域の国家に対し「唐・漢・唐土」の文字を用いて「とう・から・もろこし」と呼び、玄奘三蔵の訳業が輸入されてからは、仏教界で「支那」が利用され、明治時代に入り「支那」が一般化した。 西暦紀元前(西周時代)にはすでに「中国」の文字は文献に現れていた[4]。 その後の歴代王朝の正史二十四史でも使用され続けているが、その範囲と概念は時代とともに変化している。
文献に現れる「中国」
『書経』の「梓材」に現れるもの
皇天既付中國民越厥疆土于先王(皇天既に中國民と厥疆の土地を先の王に付す)
『詩経』の「大雅」の「生民之什」の章の中の「民勞」に現れるもの
民亦勞止 ?可小康 惠此中國 以綏四方(この中国に恵あれ、四方安らかに)無縱詭隨 以謹無良 式遏寇虐 ?不畏明柔遠能邇 以定我王
遺物に現れる「中国」詳細は「何尊」を参照
1963年出土した「何尊」は西周成王時代(紀元前11世紀)の青銅器で、銘文に武王の言葉として「余其宅茲中国、自之乂民」と刻まれている。
遺物そのものにある「中国」の用例としては、現存最古とされる。
「中国」の意味の変遷
古典的用法中華思想における世界観
本来は特定の国家や民族を指す言葉ではない。西周時代には広く見積もって中原、または洛陽周辺を指していた[4]。
ベトナムでは阮朝が自国を中国(チォンコック)と呼び、日本でも自国に対して葦原中国(あしはらのなかつくに)あるいは中国(なかつくに)という美称を用いている[注 1]。
日本において朝貢する異族に対し、自国を「中国」と称した最古の表記例は『続日本紀』文武天皇3年(699年)7月19日条における「徳之島人が中国に渡来するのは、この時から始まった」の一文であり、中国に対して「日本」と初めて称した時期とほぼ一致する。
一方、黄河流域で黄河文明を営んでいた漢民族の前身となった都市を持つ部族国家連邦の民の国際社会では、「中国」という語は、王や覇者を中心とした秩序に基づくものであった。その後、中華思想に基づく「文化的優越性を持った世界の中心」という意味を帯び、秦始皇帝のこの地域の諸民族の統一に発する中国歴代王朝の政治的・軍事的な境界を設定する中で、徐々に形成されていった漢民族意識のアイデンティティを境界付ける自称として拡張されていった。
「中原」とは、黄河文明の発祥地である黄河中下流域に広がる平原のことであり、しばしば「中国」と同義とされる。
「秦始皇は中国を防衛するため長城を建てた」と文書に記載されている[5]。漢書溝恤志卷29では「中國川原以百數」(いにしえより中国には何百もの山と原があり)[6]、前漢昭帝時代に書かれたとされる『塩鉄論』では、景帝時代までの領土及び地域を「中国」と称している[7]。
また、武帝が新規に征服した領域は「中国」と対置する領域として「辺境」と各所で記されてもいる[8]。しかし、武帝が新たに征服した領土を含む領域を「中国」と表現している箇所もある。武帝が支配した領域以外の地域を「外国」[9]と表記し、「外国」が「中国」と対置されている箇所があるからである[10]。このように、『塩鉄論』論争当時は、「中国」の概念は、武帝征服領土を含む場合と含まない場合が見られ、辺境郡を中国に含むかどうかで論者による認識のずれがあったようである。
周王朝時代の領域は「諸夏」[11]、漢高祖の平定領域は「九州」[12]、と各々使い分けて記載されている。この時代には、既に「中国」の領域が「中原」よりも広い地域に拡大し、自民族の伝統的領域と認識されている一方、王朝の支配領域全てが「中国」と認識されているわけではない用例があることを窺い知ることができる。
『塩鉄論』には一箇所だけ「漢國」の表記があり[13]、概ね「漢」に支配される領土は「中国」と同義とみられる[注 2]。
唐王朝に入ると「中国」の領域は更に拡大し、現在中国本土と呼ばれる領域が「中国」と認識されるようになっていた。例えば「唐興,蠻夷更盛衰,嘗與中國亢衡者有四:突厥、吐蕃、回鶻、雲南是也」とある[14]。韓愈は論仏骨表では「仏というものは、後漢代に中国に伝わったものであり、その前中国にはまだ仏は居なかったのです」と記している。
同時に「中国」は地理的な領域名だけではなく、王朝が現時点で支配している領土を意味するようにもなっていた[15]。
「中国」の領域認識は支配領域の拡大縮小と連動した。
通例では清朝末期以前は、「中国」は通史的意味合いを持たないとされているが、通史的な用例がまったくないわけではない。例えば「宋史列傳194儒林五/胡安國」では「自古中國強盛如漢武帝、唐太宗」(いにしえより中国は漢武帝や唐太宗の如く強く盛んであった)という記載があり、『魏志倭人伝』には「自古以來其使詣中國皆自稱大夫」(いにしえより以来、その使者が中国に来ると皆自分を大夫と称した)と記されている。
中華(ちゅうか)あるいは華夏(かか)という用語は、「優れた文化を持つ者」を意味し、漢民族の間で「中国」と同様の自称として用いられた。
「中心の国に住む優れた文化の担い手」という意味の「中華」には、地理的な意味に加えて、「漢民族のアイデンティティ」と「華夏文化の優越性」という要素が共存していた。
中華思想においては、天の意志を代行する皇帝が、その徳をもって統治し、もし徳を失えば新たな家系に替わる。「中国」「中華」に対して、その四方に居住する周辺民族は「夷狄」として対置される。
11世紀以降の宋から明にかけて、宋明理学は大いに流行し、再び華夷秩序が強調されるようになった。また宋や明では異国文化を珍重し、外国人が宮廷で登用されることも珍しくなかった[16]。
中国の皇帝は西アジアの「諸王の王」に相当し、中国歴代王朝は、自らが人類で唯一の皇帝[注 3]であり、それ以外は中華世界における辺境に過ぎないという態度を取った。
対等な国が存在しないのだから、対等な関係の外交は存在せず、周辺民族との関係は全て朝貢という形式となる。逆に夷狄の王が中原を征服して中国に同化し、皇帝となることも可能であった。五胡十六国時代の諸国や南北朝時代の北朝、五代十国時代の突厥沙陀部系軍閥が中央権力の要を成した後半四代がこの典型である。しかし、遼・金・元・清の4王朝は、漢民族を支配して中華帝国の系統に属する王朝を作ったが、自民族の統治制度や文化も保持し続け、版図の一部を構成するに過ぎない漢民族地域に対しては、征服王朝として振る舞った。漢民族が直面したこのような現実に対して、宋学では華夷秩序が強調されるようになった。それに基づく、清の法律にも「外国人に対しては自分を中国と呼ぶ必要がある」と規定したことがある[17]。
日本でも、江戸時代以前に大陸を「中国」と呼んだ事例は見られない(幕末、「満洲夷」が自分たち自身を「中国」と呼んでいると紹介されることはあった[18])。