中国語
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また、普通話を俗に「北京語」と呼ぶことがあるが、日本の標準語と東京方言の関係と同様に、普通話と北京官話は必ずしも同一のものではない[4]

なお、一般的に、中国語では、文字のある言語を文といい(例:ドイツ語→コ文)、明確に定めた文字のない言語、方言あるいは口語・会話のことを指すときには話という(例:上海話)。語は前述の両方に使われる(例:コ語(ドイツ語)、?南語)。
特徴

中国語の特徴といえば「漢文からの簡潔さ」ということである。

簡潔さの例として、まず中国語では時制が省略される。ゆえに現在未来過去かは読者の判断にゆだねられる。またと句、と語の間の関係が、条件結果であるとき、順接であるとき、逆接であるとき、いずれも概ね語順によってのみ示され、これも読者の判断にまかされる。ゆえに中国語の文法は簡単であるが、常識によって理解されるという特徴がある。さらに助字(而・之・於・者・焉の類)も省略される。中国語には助字を添加してもしなくても文章が成立するという性質がある。よってこれを日本語に訓読する場合は、「てにをは」を添加する必要がある。

一方、中国語はリズムに敏感なのような性質を常に保持し、そのリズムの基礎は四字句が中心になっていることが多い。こうしたリズムの組成のために助字がしばしば作用する。助字は、あってもなくてもよい語であるという性質を利用して、簡潔とは逆行するが、助字を添加することによってリズムを完成させ、文章を完成させる。よってこのようなリズムの充足のために添えられた助字は、はっきりした意味を追求しにくいことがよくある。またこの四字句などは、しばしば対句的な修辞となる。つまり同じ文法的条件の語を同じ場所におく、繰り返しのリズムである。この対句は中国語の性質から成立しやすいものであり、その萌芽が『老子』をはじめとする古代の文章にしばしば見える。これがやがて律詩を生み、唐から宋までの中世の美文・四六駢儷文を生んだ[5]
歴史
古代漢語

上古中国語紀元前15世紀頃 - 3世紀頃)[6]

漢字の原形とされる甲骨文字1899年に発見)が使われており、簡単な文章が記録されている。

声母(頭子音)に複子音 sl-, pl-, kl-(例: 「監」*klam) などが存在した。

韻母の尾子音は豊富だった(例:「二」 *gnis)。

語順はタイ語的なSVO型だった。(例: ? 敗 越 於夫椒 「呉は夫椒で越を破った。」 S-V-O-Adv ⇔ 現代語: ?軍 在夫椒 把越軍 打敗了。 Or ?軍 在夫椒 打敗了 越軍 S-Adv-O-V)[7]

この頃の文献としては、諸子百家にまつわる書が残っている。


文法的に重要な役割を果たしていた接辞不変化詞による修飾語の形成があったが、後期になると衰え始めた。

代名詞があった。今でも一部が客家語湘語に残っている。

戦国時代の言語は楚文字と呼ばれる字体の漢字で竹簡などに記録され、包山楚簡里耶秦簡などが発見されている。

の全国統一で言語が各地に伝播した。

中期漢語

中古中国語4世紀頃 - 代)[8]

2音節の熟語が発達した[8]

動詞活用が消滅し始め、孤立語的な特徴を帯びるようになる。

漢字の字体が統一され、規範的な字書が作られた[9]。また、科挙試験によって、発音、字体、文法など、規範的な言語の使用が促進された。

李白杜甫韓愈などの詩人文人を輩出した。(→唐詩を参照)

近代漢語

古官話代、代、代)[8]

元代には唐宋以来の漢音を使っていたと考えられている[10][11]

語彙面、文法面で、文語と口語の差が広がった。代から代には、口語による白話小説が広く書かれるようになった。

元代と清代には北方語を中心に、アルタイ諸語から幾つか語彙を吸収したことがあった。ちなみに介詞"把"は代に既にあった。例:白居易の『戯醉客』には「莫把杭州刺史欺」。

元代口語では文末助詞の「有」が多用された。

都のあった北京の言葉を中心にした言語が全国に広まり始めた。この言語は「正音」と呼ばれていたが、官吏が主に使用したことから明代以降「官話」の呼び名が定着するようになった[12]

多くの北方方言入声が消滅する[13]

明代、北方方言を中心に「児化音」が現れた。これはアルタイ諸語からの影響でなく、北方方言自らの音韻変化である。

軟口蓋音口蓋化が進行する。(乾隆期)[14]

現代漢語

1895年日清戦争後に、西欧の事物・概念を表す語を中心に和製漢語の中国語への流入がはじまり、1898年梁啓超横浜市で『清議報』を発刊したことによってそれが本格化した[15]1905年中国同盟会結成頃から、優秀な学生が日本の早稲田大学などへ留学し、既に日本語化され定着した「和製漢語」などの西洋概念に触れ、日本の国語の影響を強く受けた。この新漢語の大量流入は1919年ごろまでに最盛期を迎え、その後も第二次世界大戦終了までは徐々に数量を減じながらも継続していた[16]

一方、清朝末期になると中国でも標準語制定の動きが高まり、1904年には初等・中等教育において官話学習が義務化された[17]。このころまでは「官話」という言葉は将来制定されるべき「標準語」との意味も含んでいたが、1910年には標準語という意味で「國語」という呼称が用いられるようになり[18]、以後官話は北京を中心とした方言を、國語は標準語を指すようになった。台湾ではその名が今でも受け継がれている。1911年には清国政府によって標準語としての國語統一を目指す法案が決定された[19]

同年起こった辛亥革命によってこの動きは一時中断したものの、新たに成立した中華民国政府は中国語の統一を重視し、國語統一の動きは引き続き進められた[20]。中華民国における「國語」制定においてはまず発音の統一が重視されたが、この発音については北京方言を用いるか、各地の方言を折衷した新しい発音を用いるかの論争が起こり、最終的に1924年に北京方言を主に用いることと定められた[21]

1917年には、陳独秀の発行する雑誌『新青年』誌上において、胡適を中心として書き言葉を「文語体」(文言文) から「口語体」へ変えようとする動き(白話運動)が広がり、文学革命が起こった[22]魯迅の『阿Q正伝』などがこの運動の中で生み出された。1919年(民国8年)、北京大学教授の銭玄同は、雑誌に寄稿して文字改革を訴えて漢字の廃止を主張し、新文化運動の中心人物となった。

第二次世界大戦後、1949年中国大陸に成立した中国共産党による中華人民共和国においても、標準語の制定と言語統一は引き続き追求された。


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