中国法制史
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このように単行指令をその形式のまま集めて、「○○令」という篇目をつけるシステムが確立したが、これは後述の律令と異なり、体系的な法典の一部を構成するものではない[9]冨谷至は、これらの雑多な律と令は、国家による体系的な編纂物ではなく、同類の規定を順番にとじ込んだファイルのようなものと解している[9]。史書の記録によると、前漢・後漢を通じて、律令の一篇のなかに篇目にふさわしくない規定が混在したり、刑罰の軽重に差異や矛盾が生じたりして、法の整理と運用に支障があった[9]。また、後漢末期には、律が60篇、令が300余篇など、あわせて2万6272箇条にも達したという[9]。単行指令を増加するに任せて、取捨選択しなかった結果といえる[9]
基本法典の形成(三国時代の魏の新律十八編)

後漢末期、魏公として国政の実権を掌握した曹操は、「科」という暫定的な法律を作り、法の氾濫の是正を目指したが、根本的な解決にはならなかった[10]。曹操の子が三国時代を建国し文帝となり、ついで明帝のが即位すると、法解釈の統一がなされた[10]。数多くの法書の中から儒学の大家である鄭玄の注釈だけが用いられることになり、中央司法官庁である廷尉府に律博士という官職が設置された[10]。さらに明帝は刑制の改正を命じ、新律18篇、州郡令45篇、尚書官令および軍中令あわせて180余篇が制定された[10]

この新律で重要なことは、漢代の傍章(『九章律』に定められていない事柄を補った律)、曹操の「科」ならびに漢以来の令を取捨選択し、必要なものは律に残し、不必要なものは廃止したことである[10]。これまで取捨選択されないで蓄積のみされていたことの弊害を一挙に解決をはかった[11]。『新律十八篇』は部分的な修正補充が行われない基本法典であり、法典と呼ぶのにふさわしい最初の法典である[11]
律令基本法典の形成(西晋時代)

三国時代の魏の末期、晋王として実権を掌握した司馬昭は、律令が煩雑すぎるとして、新たな法典の編纂を命じた[11]。司馬昭の子の司馬炎を創設して武帝となり、268年泰始4年)に『泰始律令(中国語版)』が公布された[11]

この『泰始律令』は律20篇620箇条、令40篇2306箇条からなり、故事30巻が付属していた[11]。これまでの単行指令をファイルして便宜的に官庁の名称などを篇目としていたことを脱却し、令の篇目に、「戸令」「学令」「貢士令」「官品令」「吏員令」のように規定の内容を示し、篇目にふさわしい内容の条文を計画的に編纂した法典となっており画期的である[11]。『泰始律令』の成立により、刑罰規定を「律」に、行政組織と執務規則を中心とする非刑罰規定を「令」の二本立ての基本法典からなる法形式が形成された[12]

八王の乱と遊牧民族の侵入の結果、晋(西晋)は黄河流域の華北を放棄し、317年、長江流域の江南に東晋を建てた[12]。漢民族王朝は、南朝宋からなる南朝へと継承されて行った[12]

南朝宋と斉は『泰始律令』を継承したが、南朝梁の武帝503年天監2年)に『梁律令』を発布した[12]。南朝陳も『陳律令』を編纂したが、南朝は陳を最後に断絶する[12]。南朝は貴族制社会のもとで文化面は大いに発展したが、華北奪回の夢を果たせず政治・軍事面では停滞し、法の発達にも乏しい時代であった[12]

放棄した華北では、5つの遊牧民族が建てた16以上の国家が興亡する、五胡十六国時代になる[13]439年鮮卑拓跋部北魏が華北を統一して、北朝最後の王朝となった[13]。遊牧民族と漢民族を融合した北朝では、商業・経済や宗教・文化の変化に応じた社会体制が法の発達を促した[13]。北朝の法制度には、秦漢から南朝に承継された法制度を駆逐したというべき、新たな要素が盛り込まれた[13]

北魏での法典編纂は、398年天興元年)に道武帝が下された律令の編纂命令に始まる。431年神?4年)に太武帝が宰相の崔浩に編纂を命じた『神?律令』は、遊牧民族王朝で作られた最初の本格的な法典である[13]。これが451年正平元年)に改定されたとき、律は391箇条にのぼった[13]。孝文帝は、刑罰の緩和と官員の不正に対する厳罰化を推進し、法の改定を繰り返した[13]481年太和5年)には、律は832箇条という膨大なものとなっていた[13]

534年に北魏は東魏西魏に分裂した[13]

西魏では、実権を握る宇文泰が法典の編纂を命じ、535年大統元年)から544年(大統10年)にかけて律の改定が行われ、『大統式』と呼ばれるようになった[14]556年に西魏をついだ北周でも法典の編纂が進められた[14]。第3代皇帝武帝563年保定3年)に『大律』が発布されたが、これは25篇1537箇条もの分量をもち、苛酷かつ細密であり、北斉の律に比して煩雑すぎると評される[14]577年建徳6年)には、『大律』を補充するため、盗賊と官員の不正に対し死刑に処して取り締まる厳格な内容をもつ『刑書要制』が発布された[14]。第4代皇帝宣帝は、皇帝の位を静帝に譲った後も実権を保ち、人々の歓心を買うため、579年大象元年)に『刑書要制』を廃止して厳格な法を緩和した[14]。しかし、翌年の580年(大象2年)には、さらに厳しい『刑経聖制』を定めた[14]楊堅が丞相となると、寛大な内容の新たな『刑書要制』が作られた[14]

西魏と北周では、北方防衛を担う軍事拠点である「鎮」出身の鮮卑族の将兵が多く政権に参加しており、治安維持と統制のため法の厳格化が必要であった[14]。華北・江南の統一の方向が定まると、法も緩和の方向に向かった[14]
唐律の原型(隋代)

577年に北周が北斉を滅ぼして華北を統一し、581年には、楊堅が、を建てて「文帝」となり、581年開皇元年)に『開皇律(中国語版)』という新しい律を発布した[15]583年(開皇3年)の改正を経て、12編500箇に整理された[15]。第2代皇帝煬帝は、「開皇律」が過酷過ぎるとして、607年大業3年)18篇500箇条からなる『大業律』を発布した[15]


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