中国朝鮮関係史
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1716年 祠を南原に建て秀吉の朝鮮役に戦死した明将を祭る[4]

1778年 朴斉家が中国に行く。『北学議』。

1780年 朴趾源が中国に行く。『熱河日記』。

1784年 李承薫が北京から朝鮮に天主教の書籍を持ち込む[4]

1791年 辛亥邪獄。

1794年 清人の宣教師周文謨がソウルに入る[4]

1801年 辛酉邪獄。

1815年 乙亥迫害。

1827年 忠清道全羅道カトリック弾圧。

1839年 己亥迫害、フランス人神父などを殺害。

1866年 丙寅教獄

19世紀末には日本、清、ロシアが朝鮮半島をめぐって対立する。日清戦争での日本の勝利のおかげで、朝鮮は中国との長きにわたる冊封体制から離脱。国号も、中国によって決められていた朝鮮から、独自に大韓帝国へと変更して独立する。それまでの漢文に変わってハングルが公的に使われるようになる。朝鮮国王は皇帝に昇格し、それまで中国皇帝だけが行っていた祭天儀式を行うため圜丘壇を建てた。また間島などに朝鮮人が移住していった。

1882年 6月、壬午軍乱漢城府駐留の清国軍が興宣大院君を捕捉して清国に連行する。10月、清国と朝鮮は河北省天津において中朝商民水陸貿易章程を締結した。

1884年 甲申政変、清軍の介入により開化派のクーデターは失敗に終わる。

1885年 天津条約 (1885年4月)、日本と清は朝鮮に出兵する場合は相互通知。

1885年 興宣大院君袁世凱に伴われて帰国[4]

1885年 清鮮電信協約[4]

1894年 甲午農民戦争(東学党の乱)。大院君派と閔妃派の対立が深まる。朝鮮は日清戦争で戦場となる。甲午改革(?1896年)。

日清戦争後

中国が正式に朝鮮を独立国として認めたのは、19世紀末日清戦争敗北後、朝鮮を植民地にしようという日本の圧力によるが[20]、後の朝鮮(韓国)併合を先に希望したのは朝鮮側である(「韓国併合」参照)。終戦後、中国の李鴻章と日本の伊藤博文との間に結ばれた下関条約第1条まさに「朝鮮国が完全無欠な独立国であることを承認する」というものであった[20]。中国は、西洋列強による攻勢により、次々と属国を失うなか、満身創痍になっても最後まで宗主国であり続けたのが朝鮮だった[20]。しかし、列強による中国分割により、中国は、香港島九龍半島のイギリスへの割譲、台湾の日本への割譲、租界租借地・勢力範囲の設定、ベトナムや朝鮮などの属国を喪失する[21]

清朝の打倒を目指した革命家たちは、中国の植民地だった朝鮮を失うことを悲しみ、「朝鮮は明朝の時代から中国の臣下だった」として、永遠に中国に服属すべきであると考えていた[22]。また、朝鮮は四夷の一つであったことから、辛亥革命を経て政権を握った革命家たちは、常に四夷の領土を欲しがるようになり、「宗族論」「邊政學」が誕生した[22]

1928年5月中国国民党南京において排日教育方針を決議し[23]馬関条約義和団の乱対華21カ条要求の撤回、沖縄台湾朝鮮関東租借地の返還を主張している[23]佐々木秀一『時局と教育的対策』(明治図書1938年11月)によると、中国国民党による排日教育の内容は以下である[24]。なお、朝鮮沖縄台湾の領有権は言及しているが、日本帝国主義によって奪われたと主張する尖閣諸島の領有権について、何ら触れていないのが興味深い[24]

<地理>
割譲地
日本の中国侵略は約五〇年前、我藩属琉球を奪ひ、沖縄県と改称したるに始まる。日清役後、我が台湾、膨湖列島を奪ひ、福建に近遍す。日露役後、また我が藩属高麗を併呑し、両国境に境を接す。

<小学唱歌集>
国恥記念歌
高麗国、琉球国、興台湾
少なからざる地すべて彼に併呑せらる
(…)
奴隷となり僕婢となるの日、眼前に迫る
此国辱何れの時か消えん

松本厚治(在大韓民国日本国大使館参事官)は、朝鮮が中国から独立することができた地政学的理由を以下のように分析している[25][26]。今日中国は、内モンゴルやチベット、ウィグルの住民を中華民族と呼び、その地を不可分の国土と称している。儒教や漢文、科挙とは無縁の、チベット仏教やイスラムの地が中国なら、制度文物をことごとく華制に従ってきた「小さな中国」は、なおいっそう中国だろう。孫文はその主著『三民主義』で、朝鮮を「失われた中国の地」とさりげなく書いている。辛亥革命のもう一人の立役者章炳麟は、チベット、回部、蒙古は住民にまかせてよいが、朝鮮とベトナムは必ず回収しなければならないと説く。この線引きが今日逆になっているのは、後二者が帝国主義国に一度支配され、中国から切り離されたこと以外に、理由らしい理由はない。中華の大国と個々の属邦の力の差は大きく、これまでのところ自力で独立できた国はない。四分五裂になって崩壊したオスマン帝国と異なり、漢民族が人口の大半を占める中国は決定的な分裂に至ることなく、外侵や内戦で窮地にあったときでさえ、属国の離反を効果的に阻止してきた。インドシナ三国にせよ、ビルマ、モンゴル、台湾にせよ、今独立の実態のある国は、いったん第三国の支配下に入った地域ばかりである。帝国主義国の力で中国の鉄の抱擁をふりほどき、しかるのち独立する。朝鮮もそうした国の一つだったのであり、そのような歴史をもたなかったチベットやウィグルは、今なお中国の圏域にとどまっている。「(韓国の)教科書」は国民がある日自覚して、にわかに独立の国ができたかのように書いているが、ありえない話である。朝鮮王国の財政規模は江戸幕府の一割にもならず、維持できた軍隊は結局万の単位になることはなかった。小国でも、武勇に秀で凝集力に富む国民なら、あるいは大国に対抗できたかもしれないが、そういう国柄でもない。この国が独立するには、実際の歴史がそうであったように、日本の力を借りるしかなかったのである。 ? 松本厚治、韓国「反日主義」の起源、p441-p442

1895年 日清戦争で清が敗れ、下関条約で朝鮮が独立国であることを日本が確認する。朝鮮から清への・献上・典礼等は廃止される。

1896年 朝鮮独自の年号、建陽を制定。

1897年 朝鮮は清の冊封体制から離脱し、朝鮮国から大韓帝国と国号を改め、王は皇帝を名乗る。10月12日圜丘壇で皇帝即位式。

1909年 間島協約朝鮮と清の国境が定まる。

1910年 韓国併合、日本に併合。

1931年 万宝山事件朝鮮排華事件

1941年 大韓民国臨時政府主席の金九の念願だった大韓民国臨時政府が公式の亡命政府として認められようとしたとき、中国国民党はその期待を無視して、大韓民国臨時政府に「韓国光復軍行動準縄」を強き、大韓民国臨時政府を中国軍の参謀総長の統制下に置いた。アメリカ国務省文書によると、大韓民国臨時政府趙素ミ外相が駐華アメリカ大使に、「日本崩壊の後、朝鮮半島宗主権の中に再び組み入れようとする中国の欲望のためだ」「中国が日本の降伏後に、再び韓国を中国の宗主権の下に置こうとしているためかもしれない」と訴え、中国が朝鮮半島の宗主権を復元しようとしているという説明をおこなう[27][28]


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