16世紀に豊臣秀吉に国土の大半を征服されるが、明の救援と秀吉の死去により国土を回復した。厳密には、豊臣秀吉は朝鮮を相手にしたのではなく、その意図は、明の征服にあり、そのために軍隊を通すことを朝鮮に要求して断られたため、無礼だとして出兵に及んだ[19]。朝鮮が断るのは当然で、朝鮮は、明の朝貢国であり、朝鮮国王(李氏)は世襲であったが、制度的には明の皇帝からそう任じられることで朝鮮国王たりえていた[19]。豊臣秀吉は、それ以前に外交関係があったことから、明と朝鮮の国冊封関係は知っていたはずであり、明は冊封関係にある朝鮮を保全するため、援軍を派遣し日本軍と戦った[19]。朝鮮では「崇明反清」の思想が強く、自らを明の後を継ぐ小中華とし、清をオランケ、野蛮人として侮蔑していた。明が滅び清に冊封されても、私的には崇禎や永暦などの明の年号を使い続け、大報壇を作って明の皇帝を祀っていた。朝鮮の一部では清の学問を学ぶ北学も生まれたが、広まる事はなかった。また清から朝鮮にキリスト教(西学)が流入したが、何回も弾圧を受け、多くの犠牲者が出た。
1592年?1596年 文禄の役(朝鮮の呼称:壬辰倭乱)
1597年?1598年 慶長の役(朝鮮の呼称:丁酉再乱)
1600年 明軍、朝鮮から撤退[4]。
1616年 光海君の明・金中立外交。
1619年 サルフの戦い。
1620年 後金の兵、朝鮮に入る[4]。
1627年 丁卯胡乱。
1630年 劉興治(ko:???)の乱、明将を殺し?島(ko:?? (???))に拠る[4]。
1636年 丙子の乱。
1637年 三田渡の盟約。明に替わり、清に服属。大清皇帝功徳碑。 王子、清の人質となる。清の年号を用いる。
1641年 清攻撃の策謀発覚し、清、朝鮮を責める[4]。
1643年 キリスト教伝わる[4]。
1653年 初めて洋暦を行う[4]。
1654年、1658年 羅禅征伐(ko:????)。
1705年 大報壇を設け、明の神宗を祀る[4]。
1712年 白頭山に定界碑を建立。
1716年 祠を南原に建て秀吉の朝鮮役に戦死した明将を祭る[4]。
1778年 朴斉家が中国に行く。『北学議』。
1780年 朴趾源が中国に行く。『熱河日記』。
1784年 李承薫が北京から朝鮮に天主教の書籍を持ち込む[4]。
1791年 辛亥邪獄。
1794年 清人の宣教師周文謨がソウルに入る[4]。
1801年 辛酉邪獄。
1815年 乙亥迫害。
1827年 忠清道・全羅道でカトリック弾圧。
1839年 己亥迫害、フランス人神父などを殺害。
1866年 丙寅教獄。
19世紀末には日本、清、ロシアが朝鮮半島をめぐって対立する。日清戦争での日本の勝利のおかげで、朝鮮は中国との長きにわたる冊封体制から離脱。国号も、中国によって決められていた朝鮮から、独自に大韓帝国へと変更して独立する。それまでの漢文に変わってハングルが公的に使われるようになる。朝鮮国王は皇帝に昇格し、それまで中国皇帝だけが行っていた祭天儀式を行うため圜丘壇を建てた。また間島などに朝鮮人が移住していった。 中国が正式に朝鮮を独立国として認めたのは、19世紀末の日清戦争敗北後、朝鮮を植民地にしようという日本の圧力によるが[20]、後の朝鮮(韓国)併合を先に希望したのは朝鮮側である(「韓国併合」参照)。終戦後、中国の李鴻章と日本の伊藤博文との間に結ばれた下関条約第1条まさに「朝鮮国が完全無欠な独立国であることを承認する」というものであった[20]。中国は、西洋列強による攻勢により、次々と属国を失うなか、満身創痍になっても最後まで宗主国であり続けたのが朝鮮だった[20]。
1882年 6月、壬午軍乱、漢城府駐留の清国軍が興宣大院君を捕捉して清国に連行する。10月、清国と朝鮮は河北省天津において中朝商民水陸貿易章程を締結した。
1884年 甲申政変、清軍の介入により開化派のクーデターは失敗に終わる。
1885年 天津条約 (1885年4月)、日本と清は朝鮮に出兵する場合は相互通知。
1885年 興宣大院君が袁世凱に伴われて帰国[4]。
1885年 清鮮電信協約[4]。
1894年 甲午農民戦争(東学党の乱)。大院君派と閔妃派の対立が深まる。朝鮮は日清戦争で戦場となる。甲午改革(?1896年)。
日清戦争後