中国朝鮮関係史
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70万年前、朝鮮半島・満州地域に人が住み始める[1]。はじめて朝鮮に統一的な勢力を形成したのは、神を信じる部族とクマを崇敬する部族の二つの部族だったという。そして両者が連合して壇君を戴き、檀君朝鮮を建国したという[2]壇君という栄光の王が実在した、あるいは檀君が築いたとされる王国檀君朝鮮が存在したという証拠はほとんどなく、壇君が実在の人物だった可能性はゼロに近い、と研究者は語っている[3]

武王箕子を朝鮮侯に封じ、箕子がの遺民を率いて東方へ赴き建国したのが箕子朝鮮である。の将軍だった衛満が、衛氏朝鮮を建てるが、に滅ぼされ漢四郡が置かれる。高句麗が興るが、これを中国の地方政権とするか、朝鮮の歴史に含めるかについては議論がある(高句麗#歴史論争:高句麗の歴史帰属をめぐる問題)。

紀元前194年 衛満が、箕子朝鮮を滅ぼし、衛氏朝鮮を建てる[4]

紀元前128年 前漢蒼海郡を設置[4]

紀元前108年 前漢が、衛氏朝鮮を滅ぼし、漢四郡(楽浪郡真番郡臨屯郡玄菟郡)を置く[4]

紀元前82年 真番郡・臨屯郡を廃する[4]

紀元前75年 玄菟郡を西に移し、半島には楽浪郡だけとなる[4]

紀元前37年 高句麗が成立[4]

紀元後

遼東公孫氏が朝鮮を支配し帯方郡を置くが、その後、楽浪郡と帯方郡はから西晋に引き継がれる。また、朝鮮半島東南部の辰韓は秦の遺民である。

三韓馬韓弁韓辰韓の国内は諸小国が分立していたが、それぞれの諸小国には首長がおり、大きな首長を臣智といい、それに次ぐものを邑借と呼んだが、臣智とは「臣たるもの」の謂であり、中国皇帝に対する臣下のことであり、それを諸小国の首長の立場から表現したものである[5]

12年 王莽が高句麗王?を殺し[4]瑠璃明王#中国史書の記述)、高句麗を下句麗とする。

32年 高句麗が後漢に入貢し、王と称する[4]

167年 玄菟太守の公孫?が高句麗を討つ[4]

204年 公孫氏が帯方郡を置く[4]

238年 魏が公孫氏を滅ぼし、帯方郡を支配[4]

244年 魏の?丘倹が高句麗の都である丸都城(現在の集安市)を占領[4]

294年 鮮卑慕容部の大人の慕容?が高句麗を攻撃[4]

313年 高句麗が楽浪郡を滅ぼし、帯方郡も滅びる[4]

342年 前燕慕容?が高句麗を討ち丸都城を占領[4]

372年 前秦から高句麗に仏教伝来。

377年 高句麗と新羅が前秦に入貢[4]

384年 東晋から百済に仏教伝来。

436年 北燕天王の馮弘が高句麗に亡命するが翌年殺される[4]

458年 百済の蓋鹵王南朝宋から鎮東大将軍の爵号を受ける。

472年 百済の蓋鹵王が北魏に使者を送り、高句麗出兵を求めるが、出兵を得られず。

煬帝の治世、朝鮮半島をめぐり高句麗との関係が緊張したとき、国際通の政治家、裴矩は煬帝に朝鮮半島領有の必要を説いて次のように言った[6]。矩因奏?曰:「高麗之地,本孤竹國也。周代以之封於箕子,漢世分為三郡,晉氏亦統遼東。今乃不臣,別為外域,故先帝疾焉,欲征之久矣。

高麗(朝鮮半島を指す)の地はもと孤竹国で周代にはここに箕子を封じました。漢代には三郡楽浪玄菟臨屯ないし帯方)に分かれ、晋朝もまた遼東を統べました。ところが今は臣ではなく外域となっています。…陛下のときになってどうしてそのままにして、この、もとは冠帯の地に蛮貊の国にしておくことができましょうか。 ? 隋書、裴矩伝.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。隋書/卷67#裴矩

高句麗はからの攻撃は撃退したが、と新羅が同盟(唐・新羅の同盟)を結び、百済と高句麗を滅ぼした。

598年 第1次隋の高句麗遠征

612年 第2次隋の高句麗遠征。

613年 第3次隋の高句麗遠征。

614年 第4次隋の高句麗遠征。

624年 高句麗に道教公伝。

644年 第1次唐の高句麗出兵

648年 新羅が唐に救援を求める。

650年 新羅が独自の元号を廃し唐の元号を用いる。

660年 唐と新羅が百済を滅ぼす(唐・新羅の同盟)。

661年 第2次唐の高句麗出兵。

白村江の戦い後高句麗の系統が新羅(後の朝鮮民族の母体)と金(後の満州族の母体)に分割され、渤海の系統が金に発展している

唐は、熊津都督府安東都護府鶏林州都督府を置いて朝鮮全体を支配しようとするが、唐・新羅戦争の結果、唐は撤退し、新羅が朝鮮半島の中南部を支配する。一方、渤海が興り、高句麗の旧領土の大部分を支配する。渤海については、大韓民国では朝鮮の一部として南北国時代と称しているが、中華人民共和国では中国の少数民族による地方政権とする(渤海 (国)#歴史論争:渤海の歴史帰属をめぐる問題)。新羅は中国の制度を取り入れ、人名も中国風に変えた。張保皐が中国から朝鮮にわたる海上勢力を作った。

663年 白村江の戦いで唐・新羅連合軍が倭国・百済遺民の連合軍を破る。

668年 唐の高句麗出兵により高句麗が滅亡。唐は平壌に安東都護府を置く[4]

670年 唐・新羅戦争始まる。新羅は戦争中も唐との朝貢冊封関係を維持し、唐の年号を使い続けていた。

676年 唐が朝鮮半島から撤退。

698年 靺鞨大祚栄が震国(後の渤海)建国[4]


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