高句麗は隋からの攻撃は撃退したが、唐と新羅が同盟(唐・新羅の同盟)を結び、百済と高句麗を滅ぼした。
598年 第1次隋の高句麗遠征。
612年 第2次隋の高句麗遠征。
613年 第3次隋の高句麗遠征。
614年 第4次隋の高句麗遠征。
624年 高句麗に道教公伝。
644年 第1次唐の高句麗出兵。
648年 新羅が唐に救援を求める。
650年 新羅が独自の元号を廃し唐の元号を用いる。
660年 唐と新羅が百済を滅ぼす(唐・新羅の同盟)。
661年 第2次唐の高句麗出兵。
白村江の戦い後高句麗の系統が新羅(後の朝鮮民族の母体)と金(後の満州族の母体)に分割され、渤海の系統が金に発展している
唐は、熊津都督府・安東都護府・鶏林州都督府を置いて朝鮮全体を支配しようとするが、唐・新羅戦争の結果、唐は撤退し、新羅が朝鮮半島の中南部を支配する。一方、渤海が興り、高句麗の旧領土の大部分を支配する。渤海については、大韓民国では朝鮮の一部として南北国時代と称しているが、中華人民共和国では中国の少数民族による地方政権とする(渤海 (国)#歴史論争:渤海の歴史帰属をめぐる問題)。新羅は中国の制度を取り入れ、人名も中国風に変えた。張保皐が中国から朝鮮にわたる海上勢力を作った。
663年 白村江の戦いで唐・新羅連合軍が倭国・百済遺民の連合軍を破る。
668年 唐の高句麗出兵により高句麗が滅亡。唐は平壌に安東都護府を置く[4]。
670年 唐・新羅戦争始まる。新羅は戦争中も唐との朝貢冊封関係を維持し、唐の年号を使い続けていた。
676年 唐が朝鮮半島から撤退。
698年 靺鞨の大祚栄が震国(後の渤海)建国[4]。
713年 大祚栄が唐から渤海郡王に冊封される。
846年 弓福(張保皐)の乱。
958年 新羅が科挙制度導入。
10世紀初に唐が滅んだ後、渤海も滅び、高麗が新羅に代わる。高麗は渤海からの遺民を多く受け入れた。高麗は五代や宋に服属していたが、遼(契丹)に攻められ遼に服属する。高麗は渤海が滅んだ後の地にいた女真を侵略して領土を北に広げるが、女真が金を建て遼を滅ぼすと、高麗は金に服属する。 高麗は13世紀にモンゴル帝国(元)の侵攻を受け支配下に入った。代々の高麗王の世子(世継ぎの太子)はモンゴル貴族や皇族の婿となって元朝の宮廷で暮らし、父の死後、高麗王に任命されるのが習慣となる。高麗王の母は、みなモンゴル人となり、4代の高麗王は元皇帝の娘婿となる。元は高麗を服属させた後に征東等処行中書省(征東行省)を設置し、朝鮮半島全土に及ぶ行政・政治・軍事の執行機関とした。また元は朝鮮半島北西部に東寧府を、北東部に双城総管府を、済州島に耽羅総管府を置いて支配した。 高麗は、400年間にわたり「日和見主義[7]」「つねに長いものにまかれる式でやってきた[8]」「事実上モンゴル帝国の国内の一封建領主」となる[9]。小島毅は、「元王朝の時代、韓国の高麗王朝はモンゴル帝国の属国」と評している[10]。
926年 遼が渤海を滅ぼし、東丹国を置く[4]。
933年 高麗が後唐の冊封を受ける。
963年 高麗が宋に服属[4]。
993年 契丹の高麗侵攻 、高麗は遼に服属するが、江東6州を得る。
1010年 契丹が高麗の都である開京を占領。
1016年 高麗がまた宋の年号を使う[4]。
1018年 契丹がまた高麗に侵入するが大敗する(亀州大捷)。
1022年 高麗が契丹の年号を使う[4]。
1033年?1044年 契丹に備え千里長城を建設[4]。
1080年 『小華集』。
1107年 高麗の尹?が女真を侵略し東北九城を築くが、翌年に女真に返して撤退する。
1126年 高麗が金に服属する[4]。
モンゴルによる侵攻後
1232年 モンゴルの高麗侵攻が始まる。江華島へ遷都。
1258年 双城総管府。
1259年 高麗の太子(のちの元宗)がフビライに降り、モンゴル帝国(元)の属国化。
1259年 蒙古に服属、太子、蒙古に赴く[4]。
1260年 忠烈王は、大ハーンに即位したフビライの娘婿となる。
1363年 木綿伝来。
1270年 蒙古が高麗から慈悲嶺
1273年 三別抄の乱を元の力で鎮圧。耽羅総管府(?1290)。
1274年 文永の役(元寇、中国の呼称:第一次元日戰爭、朝鮮の呼称:第1次日本遠征 ?1? ????)
1278年 辮髮・胡服令。
1281年 弘安の役(元寇、中国の呼称:第二次元日戰爭、朝鮮の呼称:第2次日本遠征 ?2? ????)
1287年 元の征東行省が常設され、元朝の領土化。