元が衰えると独立し、北方の領土を回復した。明が興ると高麗に代わって親明を掲げる李氏朝鮮が建国され、明に朝貢した。当初は明から権知朝鮮国事とされ、国王にはしてもらえなかった。李氏朝鮮の国王は、中国皇帝がいる北京の方向に向かって遥拝する望闕礼という儀式を行っていた。李氏朝鮮は女真を侵略し、北部に領土を広げた。
1354年 恭愍王による反元運動が始まる。
1356年 元軍が高麗から撤退(双城総管府を回復)。元の年号を止める。江西八站を攻略[4]。
1359年?1362年 紅巾の乱が高麗に侵入し、開京を占領。
1370年 明の年号を用いる[4]。
李氏朝鮮の初代国王李成桂は1392年、明が冊封した高麗王の?王、昌王と恭譲王を廃位して高麗王位を簒奪して高麗王を称した後、すぐに明に使節を送り、権知高麗国事としての地位を認められたが、洪武帝は王朝が交代したことで、国号を変更するよう命じた。これをうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、朝鮮と和寧の二つの候補を準備し、洪武帝に選んでもらった[11]。和寧は李成桂の出身地の名であったが[11]、北元の本拠地カラコルムの別名でもあったので、洪武帝は、前漢の武帝にほろぼされた王朝(衛氏朝鮮)の名前であり、平壌付近の古名である朝鮮を選んだ。そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより、朝鮮は正式な国号となった。和寧が単に李成桂の出身地であるだけなのに対し、朝鮮はかつての衛氏朝鮮・箕子朝鮮・檀君朝鮮の正統性を継承する意味があったことから本命とされており、国号変更以前からそれを意識する儀式が行われていた[12]。国号が朝鮮という二文字なのは、中国の冊封体制に、新王朝の君主が外臣として参加して、一文字の国号を持つ内臣より一等級格下の処遇を与えられていることを意味する[13]。
李成桂は、「権知高麗国事」を正式に名乗ったが、「知」「事」が「高麗」を囲んでおり、「権」は日本の権大納言・権中納言と同じで「副」「仮」という意味であり、「権知高麗国事」とは、仮に高麗の政治を取り仕切る人という意味である[14]。このように李成桂は、事実上の王でありながら、「権知高麗国事」を名乗り朝鮮を治めるが、それは朝鮮王は代々中国との朝貢により、王(という称号)が与えられたため、高麗が宋と元から王に認めてもらったように、李成桂も明から王に認めてもらうことにより、正式に李氏朝鮮となる。小島毅は、「勝手に自分で名乗れない」「明の機嫌を損ねないように、まずは自分が高麗国を仮に治めていますよというスタンスを取り、それから朝貢を行い、やがて朝鮮国王として認めてもらいました」と評している[15]。
国号を洪武帝に選んでもらったことは、事大主義を象徴していると揶揄されるが、新王朝が擬定した朝鮮の国号は、朝鮮初である檀君朝鮮と朝鮮で民を教化した箕子朝鮮を継承する意図があり[16]、首都が漢陽に置かれたのは、檀君朝鮮と箕子朝鮮の舞台であるためである。新王朝は、檀君と箕子を直結させることにより、正統性の拠り所にする意図を持っていた。朝鮮という国名は、殷の賢人箕子が、周の武王によって朝鮮に封ぜられた故事に基づく由緒ある中国的な呼称であるため[17]、洪武帝は、新王朝が箕子の伝統を継承する「忠実な属国」となり、自らは箕子を朝鮮に封じた周の武王のような賢君になりたいと祈念した[12]。従って、中国への事大主義を国是とする新王朝が、周の武王が朝鮮に封じた箕子の継承を意図する朝鮮の国号を奏請したことは適切であった[18]。
1388年 崔瑩、遼東を攻める[4]。
1388年 親明派の武将李成桂がクーデターを起こし実権者になる(威化島回軍)。
1392年 李成桂が高麗の恭譲王から王位を簒奪し、高麗王に即位。明より権知高麗国事として認められる。
1393年 李成桂が権知朝鮮国事に冊される。明の皇帝に、国号を「朝鮮」と「和寧」の2案から「朝鮮」を選んでもらう。
1401年 明から朝鮮国王へ冊封される。
1437年 六鎮[4]。
1443年 訓民正音の制定(1446年公布)。
1443年 四郡(ko:??)。
1460年 オランカイ、会寧に入寇[4]。野人女真を攻撃[4]。
1467年 建州女真を討つ[4](李滿住)。
1479年 朝鮮軍、明軍とともに女真と戦う[4]。
1491年 野人女真を攻撃[4]。
1502年 西北の人口希薄の地に、南方人を移住さす[4]。
1504年 夷三族法を立つ [4]。
1523年 野人閭延等の地を侵す [4]。