中国文学
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鼓詞

弾詞


-韻文-



散曲

戯曲

雑劇

宋雑劇

院本

元雑劇(北曲) - 元曲

温州雑劇(南曲)

南雑劇(南北曲兼用あるいは南曲)


戯文(南戯)(南曲)

伝奇(南曲)




-散文-

小説



歴史
先秦「東洋哲学」および「老荘思想」も参照

各国の文学同様、中国文学も文字で書かれる以前から口承文芸の形で存在し、音楽性を伴った歌謡が歌われていた。はじめて歌謡を採集して文字の形で残したのが『詩経』である。『詩経』は古くは『詩』と呼ばれ、押韻を伴う四言詩であり、韻文の始祖と言えるアンソロジーである。「風(民謡)」「雅(宮廷音楽)」「頌(祭礼音楽)」の3つからなり、黄河流域で発生した。『詩』は戦国時代には儒家の重要な6つの経典、六経の一つに挙げられている。この後揚子江流域で『楚辞』が生まれ、これは後にへと続く。

散文では『尚書』という歴史書が編まれたが、これは政治演説集といった性格を持っている。また『春秋』という記事を羅列する歴史書が編まれた。これらも儒教の六経に挙げられている。戦国時代になると、諸子百家と称される思想家たちが『論語』『老子』『荘子』『韓非子』『孫子』といった哲学的・思想的な作品を残した。歴史書では『春秋左氏伝』といった作品が残されている。
漢代

漢代では韻文では『楚辞』の系統であるが隆盛し、司馬相如らが活躍した。武帝の時、音楽採集を担当する官署である楽府によって民間歌謡が採集され、楽府と呼ばれた。

散文では、司馬遷によって『史記』が著され、後代に歴史書編纂に大きな影響を与えた。
魏晋

この時代、民間の歌から五言詩が生まれた。一行五音(五字)にそろえられたこの形式は、その後数百年にわたり文学の中心となった。

三国時代ではの親子曹操曹丕曹植(192年 - 232年)、その後の阮籍(210年 - 263年)らが知られる。後漢の建安年間(196年 - 220年)に曹操らによるサロンを中心に栄えた新しい文学を建安文学と呼ぶ。建安の七子と呼ばれる人々が活躍した。阮籍や?康らの詩風は魏の正始年間(240年 - 249年)から正始体と呼ばれている。

西晋が中国を統一すると陸機左思などが活躍し、続いて南北朝時代に入ると陶淵明(365年 - 427年)が活躍した。
南北朝時代

この時代は、南朝宋の3代にわたって活躍した沈約や、沈約が出入りした南朝斉の竟陵王蕭子良の西邸のサロンが文学の中心となる。沈約と共に、その西邸の「八友」に数えられた蕭衍も当代一流の文化人であり、梁朝の創業者ともなる。また、蕭衍の子の昭明太子蕭統が編纂した『文選』は古代より六朝に至る主要な名文を集めたアンソロジー(詞詩集)として後代のみならず、日本においても広く受容された。さらに、次の皇太子蕭綱の命により徐陵が編纂したとされる『玉台新詠』がある。南朝梁の劉?は、文学理論書である『文心雕龍』を著した。なお六朝時代に隆盛した文体は対句や典故を多用する駢文である。

小説作品は、『捜神記』や「桃花源記」に代表される志怪小説が発達した。

この時代、史学という学問も独立へと向かい、文学と併せて、中国独自の経(儒教)・史(史学)・子(儒教以外の哲学)・集(文学)という学問体系の基礎が形成される。
唐代詳細は「唐朝文学(中国語版)」を参照

唐代は中国詩歌史における黄金期だったとされる。一般に唐代文学は初唐盛唐中唐晩唐の四つに分別されることが多い。これを四変といい、南宋厳羽が『滄浪詩話』のなかにおいて唱えたのが最初とされ、代以降は一般的な区分とされる[1]。ここでは、この四区分に随って、まず唐代の韻文史を概観する[2]

初唐(618-709):六朝期の継承と発展。初唐を更に二つの時代に分けるならば、太宗皇帝貞観時代則天武后の時代である。貞観時代を代表する詩人は上官儀であろう。太宗の作詩の顧問であり、対句の分類を行った。この貞観時代、上官儀の詩の発展を承け、則天武后時代には「四傑」と称された王勃楊炯盧照鄰駱賓王や、蘇味道・李?・沈?期宋之問がいる。特に沈?期、宋之問らによって七言律詩の詩型が作り出され、近体詩の韻律が整備された。この頃はまだ文学の中心は宮廷にあり、先にも名前が出た宋之問は25題ほど「応制」に類する作を残している[3]陳子昂は則天武后時代の異色の詩人として評価される[4]

盛唐(710-765):最盛期。盛唐に入ると詩は宮廷を離れ[5]王維孟浩然高適岑参李白杜甫らにより詩の黄金期が築かれた。の張之象の『唐詩類苑』の巻頭に1000人ほど唐代の詩人の名が列挙されるが、そのうち盛唐に属する人は242人ほどであるという。盛唐は王維・孟浩然のグループと高適・岑参のグループに分けられる。前者は自然の風景を愛し、描写した人々、後者は中国の辺境の異様な風物、生活を描写した人々ということができよう。また、詩の形式についていえば、律詩の詩型が初唐の末から盛唐にかけて成熟、完成するが、古詩の形式はこの盛唐から始まる。なお、この盛唐には女流詩人に乏しいことも指摘できる[6]

中唐(766-835):変革期。白居易柳宗元韓愈李賀など。

晩唐(836-907):耽美的で、頽廃的。杜牧李商隠[7]

この時代の散文は四六駢儷体という美文で書かれた。また韓愈(768年 - 824年)は詩のみならず、散文で文学と呼べる作品を残し、韻文中心だったそれまでの文学に新しい流れを作った。四六駢儷文にかわって古文と呼ばれる古い自由な文体を用いた。

六朝の志怪小説は、唐代になると「伝奇」や「古鏡記」などの伝奇小説へと発展する。しかし、北宋以降には、再び志怪小説へと回帰してしまう。『夷堅志』や代の『聊斎志異』がその代表である。

遊仙窟』が著されたが、しかし中国では散逸してしまい、日本で残った。
宋代詳細は「宋朝文学(中国語版)」を参照

では宋代初期には晩唐の煌びやかな詩風が踏襲され、真宗期には李商隠の詩風を模した西崑体が隆盛した。その代表的な詩人には楊億・劉?銭惟演がいる。

そのなかで王禹?は質朴平淡な自然体の詩を作った。仁宗期に入り、欧陽脩に重んじられた梅堯臣蘇舜欽らが清新な詩を作り、それまでの詩風を一変させた。これにより貴族による抒情的て美的な詩風を特徴とする唐詩に対し、士大夫による知性的で政治的な詩風を特徴とする宋詩の基礎が確立された。

神宗期に入ると、王安石が政治的な議論詩を多く作った。そして、蘇軾(蘇東坡)(1036年 - 1101年)は機知に富んだ優れた作品を残し、後世に大きな影響を与えた。蘇軾の門下に多くに優れた詩人が現れたが、特に黄庭堅は蘇軾に匹敵するとされ、世に「蘇黄」と称された。南宋時代、黄庭堅を模した詩風が隆盛し、江西詩派と呼ばれる一派を形成した。

宋が南渡した激動期において唐詩の抒情性への回帰が見られ、その詩風は南宋四大家と呼ばれる陸游范成大楊万里尤袤らによって発展させられた。


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