中国国民党(ちゅうごくこくみんとう、繁体字: 中國國民黨、?音: Zh?ngguo Guomind?ng[1]、英語: Chinese Nationalist Party、Kuomintang[11]、略称: KMT[11])は、中華民国(台湾)の政党。略称は国民党[18](こくみんとう)。イメージカラーは藍色で、ニュース報道等では、民主進歩党(以下、民進党)の「緑」に対して「藍」と呼ばれることがある。民進党と共に二大政党制を形成している。2024年1月現在は野党かつ立法院第1党である[19]。 1919年10月10日、孫文が中華革命党を改組して結党した。 ポツダム宣言(第二次世界大戦終結)に基づいて1945年10月25日に中華民国が台湾を編入し、中国共産党との内戦を開いた中台両地域統治時代を経て、1949年10月1日に内戦で敗れた中華民国政府が、台北に事実上遷都した1949年12月7日以後は、台湾省を地盤とした政党として存続し、台湾への土着化(台湾本土化)を経て、今日に至っている。 2000年に民進党の陳水扁総統が就任し、史上初めて野党となった。2001年には立法院(国会)第1党の座も奪われた。しかし、2008年に国民党の馬英九総統が就任し、立法院第1党も奪回、政権与党に復帰した。その後は対中情勢の変化もあり、2016年から民進党に政権の座を明け渡している。 台湾及び、福建省のごく一部(金門島、馬祖島)を基盤とした政党となって久しいが、党の精神的支柱として今なお孫文を党総理とし[注 1]、また?介石をも2014年から「永久総裁」としており、いまだ党名に「中国」を掲げて「中国の政党」としての建前は捨てていない。「大陸反攻」のスローガンを撤回した李登輝時代には党の台湾化、いわゆる「本土化」が一定程度進んだが、李登輝が総統を退任して国民党を離党した2000年頃からは党内「本土派」が退潮し、副総統だった連戦が党主席に就任してからは「中華民族アイデンティティ」から、中国大陸との繋がりを強調する傾向に回帰している。 孫文と?介石が、日中戦争の前から大日本帝国(日本)と関わりが深かったこと(敵としても友人としても)や、冷戦時代は一党独裁を敷いて世界反共連盟(1990年に世界自由民主連盟と改称)を主導して反共主義による外交を展開し、日本の自由民主党(とりわけ清和会)と太い繋がりを持ったため、知日派を多数擁しており、中国国民党の公式ウェブサイトには、開設初期から中国語版、英語版と並んで日本語版がある[注 2]。 冷戦終結後は、敵対関係にあった中国共産党との党間交流を再び図るも、かつて孫文と?介石によって二度行われた国共合作の失敗から、拙速な中台統一には慎重な声も根強く、統一派である「統派 1894年11月、清国を打倒し共和制国家樹立を目的とした興中会が孫文を中心としてハワイで結成された。興中会はたびたび武装蜂起を試みたが失敗した。 1905年8月には清朝を打倒することを目指して結成されていた結社が大同団結することで合意し、興中会、華興会、光復会が合併して日本の東京で中国同盟会が結成された。中国同盟会は機関紙の『民報』を発行し、孫文は三民主義の思想を発表した。 1911年10月には武昌起義が起こり、翌1912年1月には南京で中華民国が成立、孫文を臨時大総統に選出した。2月には宣統帝(愛新覚羅溥儀)が退位し、辛亥革命が成り、清朝は滅亡した。同年8月には中国同盟会を中心として統一共和党、国民公党、国民共進会、共和実進会等が合併して「国民党」が結成された(この国民党は本記事の中国国民党とは別の組織であると認識されている)。 1912年12月から翌1913年2月にかけて実施された国会選挙では国民党が第1党となったが臨時大総統に就任していた袁世凱に警戒され、国民党の主要人物であった宋教仁は上海で暗殺された。反発した国民党員は袁世凱打倒のため武装蜂起を試みるが失敗に終わり、主要党員の多くは海外に逃亡、残った党員も弾圧されて国民党は破滅状態になり、11月には国民党に解散命令が出された。日本に亡命した孫文は1914年7月、東京で中華革命党(こちらが中国国民党の前身)を結成した。この中華革命党において孫文は党員に対して絶対服従を要求した。同年の第一次世界大戦の勃発に乗じて1915年に日本が二十一カ条の要求を突きつけた。すると袁世凱は帝政を樹立し、難局を乗り切ろうとした。が、かえって帝政反対運動である第三革命が起こった。結局実現できないまま袁世凱は1916年に亡くなってしまった。翌1917年には孫文が広東軍政府を樹立した。しかし、北京の段祺瑞軍閥政府に戦敗し、上海へ逃げた。その中、1919年にヴェルサイユ条約に反対する五四運動が始まり、中国民衆の帝国主義に対する民族運動が一気に高揚した。 1919年10月10日、結成されたものの活動が停止していた中華革命党を改組する形で中国国民党が結成された。本部は上海に置かれ[22]、党総理には孫文が就任した。 第一次世界大戦後のパリ講和会議によってドイツから山東半島の権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」が盛り上がった。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく[23]。この反日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した[24]。旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェヴィキをモデルとした[23]。
概要
歴史在オーストラリア中国国民党事務所
黎明時代
中国大陸時代
中国国民党の成立