中国国民党
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1905年8月には清朝を打倒することを目指して結成されていた結社が大同団結することで合意し、興中会、華興会光復会が合併して日本の東京中国同盟会が結成された。中国同盟会は機関紙の『民報』を発行し、孫文は三民主義思想を発表した。

1911年10月には武昌起義が起こり、翌1912年1月には南京中華民国が成立、孫文を臨時大総統に選出した。2月には宣統帝(愛新覚羅溥儀)が退位し、辛亥革命が成り、清朝は滅亡した。同年8月には中国同盟会を中心として統一共和党、国民公党、国民共進会、共和実進会等が合併して「国民党」が結成された(この国民党は本記事の中国国民党とは別の組織であると認識されている)。

1912年12月から翌1913年2月にかけて実施された国会選挙では国民党が第1党となったが臨時大総統に就任していた袁世凱に警戒され、国民党の主要人物であった宋教仁上海暗殺された。反発した国民党員は袁世凱打倒のため武装蜂起を試みるが失敗に終わり、主要党員の多くは海外逃亡、残った党員も弾圧されて国民党は破滅状態になり、11月には国民党に解散命令が出された。日本に亡命した孫文は1914年7月、東京で中華革命党(こちらが中国国民党の前身)を結成した。この中華革命党において孫文は党員に対して絶対服従を要求した。同年の第一次世界大戦の勃発に乗じて1915年に日本が二十一カ条の要求を突きつけた。すると袁世凱は帝政を樹立し、難局を乗り切ろうとした。が、かえって帝政反対運動である第三革命が起こった。結局実現できないまま袁世凱は1916年に亡くなってしまった。翌1917年には孫文が広東軍政府を樹立した。しかし、北京の段祺瑞軍閥政府に戦敗し、上海へ逃げた。その中、1919年ヴェルサイユ条約に反対する五四運動が始まり、中国民衆の帝国主義に対する民族運動が一気に高揚した。
中国大陸時代
中国国民党の成立

1919年10月10日、結成されたものの活動が停止していた中華革命党を改組する形で中国国民党が結成された。本部は上海に置かれ[22]、党総理には孫文が就任した。

第一次世界大戦後のパリ講和会議によってドイツから山東半島の権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」が盛り上がった。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく[23]。この反日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した[24]。旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェヴィキをモデルとした[23]ソ連からコミンテルン代表のミハイル・ボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある[24]。他にもソビエト連邦共産党のシステムを学び、ソ連と同様の党国体制を布いた。

1921年に中国共産党が樹立されると、国民党は当初は容共の立場をとり、1922年のコミンテルン極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月にはソ連との連帯を鮮明にした「孫文・ヨッフェ共同宣言」が発表される[25]。1923年6月の中国共産党第3回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン指導で、国共合作が方針となった[25]1924年1月20日には、共産党との第一次国共合作が成立し、軍閥に対抗するための素地が形成された。陳独秀毛沢東もこのときに国民党に入党した[26]

孫文の死後、1925年に上海で発生した五・三〇事件を背景にして、汪兆銘主席とする広州国民政府を樹立、1926年には、北伐を開始した。1927年に、?介石の上海クーデターにより国共合作は崩壊したものの、北伐は継続され、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒すことに成功した。
南北統一・国民政府成立後

北伐の完了を受けて、1928年、?介石を主席とする国民政府が中華民国を代表する政府となった。しかし、その内実は、北伐の過程で、各地の軍閥を取り込んだ、雑居政党となっており、それらを整理しようとする?介石の動きを1つの契機として、中原大戦1930年5月1日?10月10日)を頂点とする、党内対立の激化が起こり、最大の危機を迎えることになる。


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