中国回教協会
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このようにして国民政府唯一の公認イスラーム組織が誕生した[21][注釈 7]
日中戦争下での活動

彼らの目的は国民政府と共同で日本軍に抗戦し、その中で宗教的活動を行うことだった。戦時下における宗旨は「国民政府を擁護すること、三民主義に適応した行動を促進していくこと、抗戦建国に協力すること」であり、1939年、理事長の白崇禧は全職員への訓話の中で、協会は「救国と救教」の組織だと強調し、ムスリムに対して日本への抗戦を訴えた。協会の会則においても、その活動は宗教の宣伝、ムスリムの組織化・訓練、抗戦参加への宣伝、ムスリム教育の推進と援助などと規定されていた[23]

戦時下での具体的な活動としては、中国のモスクイスラーム学校、ムスリムを対象とした調査、機関誌など出版物の発行や学術講演会の挙行といった国内での宣伝、モスクの管理やクルアーンの中国語訳[注釈 8]といった教務、農場や工場の建設といった生産活動などが挙げられる。また、イスラームを侮辱する本の取り締まりの要請、被災したムスリムの救済、イスラーム学校の設立などムスリムの地位を向上させる活動も行った。これらの中でも、特に調査事業は回教救国協会が全国組織として活動するうえでの基礎となった[24]。また、エジプト留学団の結成、中馬文化協会(中国-マレー文化協会)や中伊文化協会(中国-イスラーム文化協会)準備組織の設立を行い、マッカ巡礼団の派遣などの国際交流は中華民国とほかのイスラーム諸国との関係を保つ助けとなった[25]

また、日中戦争下においても各地の支部ではイスラームの祭りが執り行われていた。ラマダン明けには日中戦争勝利への祈祷と同胞への追悼が行われ、1944年に重慶で行われた犠牲祭にはイラン公使やその秘書、トルコ大使館の秘書といったイスラーム諸国の使節も参加した[26]

協会は、当時盛んになった憲法論議にも目を向けた。1940年1月11日の常務理事会において、憲政研究会を組織し、ムスリムを指導して選挙の運用を補助することが提案された。機関紙である「中国回教救国協会会刊」[注釈 9]においても憲政問題の記事が増え、1936年に国民政府が交付した中華民国憲法草案、いわゆる五五草案を掲載し、ムスリムの立場から慎重な審査を加える必要があることを示した[27]

1942年に2回目の全体会員代表大会が開かれ、名称を現在まで使用されている中国回教協会に改めた[28]
日中戦争後

1945年8月、日本の敗戦によって第二次世界大戦、並びに日中戦争が終結した。国民政府が首都を重慶から南京に戻すのに従って、中国回教協会は、本部の所在地は国民政府の首都とするという会則に従って南京にその本部を移した[29][30]。1945年に日本から中国への台湾が返還された後、協会の南京支部は抗日協会の設立者である王静斎、ムスリムでありイスラーム学者の常子春らと接触し、1947年12月23日に協会の台湾支部準備委員会を設立した[31]

しかし、1946年に勃発した国民政府と中国共産党との国共内戦において国民政府軍は共産党軍に敗北を重ね、台湾への撤退を余儀なくされた。創設から国民政府(1948年以降は中華民国政府に改組)の擁護を掲げ、理事長である白崇禧をはじめ上層部に国民党の関係者が多かった中国回教協会は、1949年に中華民国政府政府とともに台湾へ移ることとなった。このように中国回教具進会の後を受けて1938年に発足した協会は、10年以上の長きにわたり中国大陸に存続し、およそ全土に21か所の分会、291か所の支会を持つ、最も影響力のある全国規模のイスラーム組織であった[32]
遷台と復会

もともと、台湾とイスラームの関係は深いものではなかった。台湾へ最初に定着したムスリムは末の時代、鄭成功らが台湾を拠点に清と争った際に現在の福建省から渡ってきた回族とされている[33]。鄭成功の敗北後、台湾は清の統治下に置かれたが、日清戦争によって日本の統治下に置かれることとなり、日本統治下においては中国本土と台湾の交流は断たれ、台湾のムスリムは、台湾の伝統的な文化や風習の中に埋没していった[30][25]

1949年4月、中国回教協会は中華民国政府とともに台湾へ移転した。上層部や知識人、国民政府の役人や兵士など約2万人のムスリムが台湾へ移ったが、一般構成員の大部分は中国大陸へ残った。移転後、しばらくは人員不足と経済状況の困難から活動停止を余儀なくされた。しかし、政府の支援もあって1952年には出版物の刊行を再開し、1958年には正式に復会した[1][25]
台北清真寺の建設詳細は「台北清真寺#歴史」を参照台北モスク内の中國回教協会事務室

当初、台湾に移ったムスリムは中古の日本式家屋などを礼拝所に用いていたが[34]、ムスリムが増えるにしたがってモスク(清真寺)の必要性が生じた。しかし中国回教協会の財政状況は芳しくなく、中古の日本家屋をモスクとするのがやっとだった。理事長の白崇禧は政府にモスク建設を訴え、当時の外交部長(外務大臣)であった葉公超の支援を得て1949年12月12日に「台北清真寺建設委員会」が設立された。中華民国政府はイスラーム世界とより深い関係を築くためにモスク建設を強力に支援し、外交部からは建設資金600万元が与えられた[35]

協会は1958年に台北市の土地を購入し、彼らの活動拠点となる台北清真寺の建設に取り掛かった。地元のムスリムの寄付のほか、ヨルダンやイランからの資金援助、外交部を介した台湾銀行からの融資もあり、1960年4月に台北清真寺が完成し、協会の本部を清真寺内に置いた[36][5][37]。その資金援助の内訳としては、ヨルダンとイランから150,000ドル、台湾銀行から10,0000ドルである。また、台湾に移り住んだ回族の故郷である寧夏回族自治区からも寄付があった[38]。清真寺の完成記念式典では国民政府の副総統である陳誠が式辞を述べ[39]、日本やオーストラリア、タイ、マレーシアなどの政治指導者や宗教指導者が招待された。台北モスクにはその後、イランのシャーであるモハンマド・レザー・パフラヴィーヨルダン国王フセイン1世ニジェールの元大統領アマニ・ディオリ、そしてサウジアラビアの国王ファイサル2世などイスラーム諸国の元首らが訪れた[25][35]

1990年、中国回教協会が台北モスクの建設のために購入した土地の元所有者が、土地の所有権を求め訴訟を起こした[注釈 10]。裁判では協会側が全面勝訴したが、元所有者の死後、登記上の地権者であった彼の子供たちが土地をセメント会社に売却。1997年に名義の変更手続きが完了し、そのセメント会社が台北清真寺に立ち退きを要求する事件が起きた。1999年に劉文雄ら国会議員、外交部の西アジア局長、内政部の史跡科長らが集まって立法院で開かれた公聴会「清真寺的未来」において、協会はモスク取り壊しの中止を陳情した。協会並びに台湾のムスリムの主張はそのまま台湾メディアによって代弁され、同1999年3月29日、台北清真寺は築わずか30年ながら台北市の文化財である「市級古蹟」に認定され、取り壊しを免れた[40]
現在まで

現在、中国回教協会は国際交流をより活発化させている。2004年には台北で世界イスラーム連盟と国立政治大学共催の国際イスラームシンポジウムが開催され、世界各国から多くのウラマーや政府要人が訪れた[7]

2015年にトルコのイスタンブルで開かれた第一回アジア太平洋諸国イスラムリーダー会議において、協会は台湾代表として理事長の張明峻らを送った。張は基調講演において、ハラール認証などの台湾のムスリムフレンドリーをアピールし、一方で新たなモスク建立について支援を求めた[41]

2020年、協会はレバノンのNGOであるURDAと協力して、レバノンのベッカーアッカールの難民キャンプで生活しているシリア難民に食糧や子供服などの支援を行った[42]


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