中国内地
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例えば、鄒容の『革命軍』(1903年)第四章「革命必剖清人種」[7]孫文の『実業計画』(1921年[注 7]中国共産党第二次全国代表大会(1922年)の「大会宣言」[8]や「『帝国主義と中国および中国共産党』に関する決議案」[9]などには「中國本部」という表現が用いられていた。台湾で出版される歴史の記述においては、柏楊の『中国人史綱(中国語版)』(1979年)や、許倬雲(中国語版)らの文章のように、第二次世界大戦後においても「中國本部」という表現が用いられることがある。

しかし、その後「中華民族」概念が広まると、中華民国やその後の中華人民共和国において、「中國本部」は排除される表現となった。1950年代に、銭穆は『中国歴代政治得失』第四講「明代」の中で、「中國本部」は「外国勢力が意図的に物事の是非を混乱させ侵略の口実として作り出したものだ」と述べている。

今日では、中国本土(チャイナ・プロパー)は、中国においても議論を呼ぶ概念となっている。現在の公式のパラダイムが、中国の核心地域と周縁地域の対比を認めていないからである。標準的な中国語である普通話で“China Proper”に相当する表現として広く用いられている言葉はない。

中華人民共和国においては、台湾、新疆、チベットといった領域は、中国の不可分の一部である、というのが公式の政策であり、政府が発行する公文書ではさらに進んで、これらの地域は、過去においても常にそうであったと主張されている。中国本土(チャイナ・プロパー)という概念が排除されるのは、独立(分離主義)の正当性に根拠を与えるからである。一方、台湾、チベット、ウイグルの独立を支持する人々は、文化に基盤を置いたネイションとしての「中国本土(チャイナ・プロパー)」と、政治的実体としての「中国」との区別を明確にすべきであると主張している。この観点からすると、中国本土(チャイナ・プロパー)が本来の中国であり、他の地域は中国の一部ではなく、中国によって獲得された植民地であるとみなされる。

「中国本土(チャイナ・プロパー)」という用語は、中華民族の歴史的、文化人類学的な中核地域という意味で解釈される場合は、さほど論争的になるわけではない。一般的に、この概念は柔軟なところがあり、定義も文脈によってしばしば変わっていく。繰り入れられたり、除外されたりする地域によっても、中国本土(チャイナ・プロパー)の現代における解釈は影響を受ける。
範囲明代末の中国本土のおおよその範囲1866年当時の十八省(台湾省の分離以前)

中国本土の範囲については、確定した境界があるわけではない。この用語は、歴史的、行政的、文化的、言語的など、多様な観点からみた、中核地域とフロンティアの対比を表現するものである。
歴史的観点

中国本土の広がりを捉える方法のひとつは、漢民族が建ててきた古代王朝の領域を検討することである。中国文明は、中核地域である中原に発祥し、周囲の民族を征服して同化し、逆に征服されて影響を受けながら、数千年にわたって外へと拡大してきた。歴代王朝の一部、特には、拡張主義的であり、中央アジアへと勢力を伸ばしたが、のように華北平原北東アジアや中央アジアの対抗する遊牧勢力に明け渡すこともあった。

漢民族が建てた最後の王朝であるは、中国を支配した最後から2番目の王朝でもある。明は布政使司(ふせいしし)13、皇帝直属の直隷2と、合わせて15の行政単位を設けて統治を行った。満洲族の建てたが明を征服した後も、明の支配下にあった地域ではこの制度が維持されたが、それ以外の清の支配地域、つまり満洲蒙古新疆チベットには、この制度を広げなかった。満洲は満洲民族の故地として特別に支配され、モンゴルやチベットでは土着の領主(土司)らを通じた間接支配を行った。その後、若干の制度再編があり、は中国本土を十八省(一十八行省)の体制で統治していった。西洋諸国の初期の文献が「中国本土(チャイナ・プロパー)」として言及していたのは、この十八省の範囲であった。

明代の体制と、清の十八省では、細部では異なる部分もある。例えば、満洲の一部(遼東遼西)は明の領土に組み込まれて山東省の一部となっていたが、明を征服する前にまずこの地域を征服した満洲族は、この地を中国本土から切り離し、清による中国統一後は副都・奉天府が管轄する、内地とは異なる行政制度の下に置くようになった。一方、清が新たに獲得した領土であった台湾は、中国本土の一部である福建省に編入された。チベット東部[注 8]の一部となるカム東部は四川省に編入され、現在のミャンマー北部の一部は雲南省に編入された。

清末になると、省の制度を中国本土の外にも広げようとする動きがあった。台湾は、列強に対する国防上の観点から、福建省とは別の独立した省とすることとなり、1885年福建台湾省が成立したが、後に日清戦争の結果、1895年下関条約によって日本に割譲された。1884年には新疆省が設けられ、1907年には満洲に奉天省(後の遼寧省)、吉林省黒竜江省の3省が置かれた。チベットではキリスト教宣教師に対する暴動の鎮圧を理由として四川総督趙爾豊が軍を進め、諸侯やガンデンポタンの抵抗を押し切り西康省西蔵省を置こうとした。内モンゴル、外モンゴルにも省制度を敷く提案はあったが実施はされず、これらの地域は1912年の清の滅亡まで、中国の省制度の外に置かれていた。
清代の十八省
当初の「十八省」


直隷 - 後の河北省

河南省

山東省

山西省

陝西省

甘粛省

湖北省

湖南省


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