指導部は団派、上海幇、太子党、陝西幇などの派閥がある[59]。ロイター通信のデータベース「コネクティッド・チャイナ」によれば、左記の派閥のほかに清華系がある[60]。 中国共産党員は中国社会のエリートであり、行政・立法・司法・軍・大衆組織など社会のあらゆる部門に末端組織である党組を設けて指導している。共産党員になるために厳格な審査があり、一般国民誰しもが簡単になれるわけではない。1つの途としては、学校で学業優秀だったり芸に秀でるなどして、選抜されて共産党青年団メンバーになり、その活動結果と党員の推薦により党員になれる途があり、特に理系の学生の入党を重視しているとされる[61]。 2020年時点での党員数は約9200万人で、これらの家族まで含めると2億7000万人おり、長らく世界で最も党員数の多い政党だったが[62]、2015年にインド人民党(党員数1億1000万人)に追い抜かれ[63][64]、現在は世界で2番目に党員数の多い政党である。 世界最大級の党員を抱えるだけに、党員による汚職・収賄などの腐敗が深刻化している。 2012年10月に規律検査委員会書記の賀国強が、2007年11月から2012年6月までに汚職や職務怠慢などで66万人以上の党員を処分し、このうち2万4000人以上が刑事処分のため司法機関に移送されたことを明らかにした[65]。また、2015年1月から11月に、税金の無駄遣いなどを戒めた「8つの規定」に違反したとして、党幹部など4万3千人が摘発され、2万9千人が処分された[66]。 党幹部の中には子弟をアメリカ合衆国・カナダなどに移住させ、いつでも海外へ逃亡できるよう準備している者も少なくない(→裸官)。また、1,000人以上の幹部が出産旅行によるアンカーベイビーで二重国籍を有している。北京市検察機関は、90年代半ばから、2008年までに、2万人弱の汚職官僚が海外逃亡をし、その際持ち去られた国家資金は8000億元(約12兆円)に達したと述べた。このような事に対して胡錦涛・習近平政権は幹部の国外逃亡を事前に阻止するため、幹部のパスポート管理や不正の疑いがある者に対して出国制限を課す、既に外国に逃亡している者を現地の政府・治安機関に身柄拘束を要請するなどの対策を打ち出している。近年は、遠隔地の農家を貸し切って宴会を開くなど、発覚を逃れる手法が巧妙化している[66]。 党の創立メンバーは創設者の陳独秀(成城学校)や董必武(日本大学)をはじめ、多数が日本への留学経験を有する。マルクス主義理論家の李大サや東京生まれの廖承志は旧制大学昇格前の早稲田大学で、毛沢東体制で長期にわたり首相(国務院総理)を務めた周恩来も1917年から1919年まで旧制大学昇格前の明治大学で修学している。中国共産党の設立会議である第一次全国代表大会を自宅で開催した李漢俊は東京帝国大学(現在の東京大学)の卒業生であり、当時その会合に日本への留学生の代表として出席した周仏海は京都帝国大学(現在の京都大学)出身だった。 党の対日政策は1935年の抗日戦争の呼びかけに始まる。中国共産党はコミンテルン(ソ連共産党が中核を担う国際共産主義組織)の指示で、当時の国民党の?介石政権に抗日戦争を呼びかけて第二次国共合作に導き、日中戦争(当時の日本側の呼称:支那事変)で最後は日本の敗北に至らせた。日本共産党でも中国共産党と協力して抗日運動に協力した例が多く、野坂参三はコミンテルンの日本代表として延安で日本人民反戦同盟を指揮した。 第二次世界大戦で日本が敗北すると(日本の降伏)、スターリン率いるソビエト連邦軍の協力で事実上消滅した旧満洲国の東北部を支配した中国共産党は、当時は国の政権を担っていなかったが満洲国などの日本人指導者層や軍人を戦争犯罪人として拘留した。中国の戦犯管理所に抑留された日本戦犯は合計で1062人、そのうち1017人は1956年に釈放され、日本に帰国した。ほかの45人は1964年4月に全部釈放された。日本に帰った「戦犯」たちは中国帰還者連絡会(中帰連)を結成し、「中日友好」に一役買った。現地に残留した日本人の中に、国共内戦で共産党軍に協力し、1949年10月1日の中華人民共和国成立後も残留する者もいた。ただし、文化大革命が始まると多数の残留日本人は激烈な批判の対象となり、帰国する者も現れた。また、廖承志などの党内の知日派も自己批判を要求され、ほとんど失脚した。 日中共産党の関係は、1950年代前半の日本側の党分裂時代でも維持され、中ソ対立でも日本共産党は当初中華人民共和国側を支持した。しかし、1950年代に徳田球一は中国に亡命して野坂参三とともに北京機関を組織して所感派を立ち上げて中国に亡命しなかった宮本顕治ら国際派と対立した歴史もあり、インドネシアの9月30日事件後の1966年に訪中した宮本顕治は毛沢東と意見が対立し、その後は両党機関紙での激しい非難合戦が続いて、両党の関係は断絶した。日本側の親中派は「日本労働党」、「日本共産党(左派)」、「日本共産党(マルクス・レーニン主義)」(後の労働者共産党)などを結党した。一方、日本社会党との関係は日本初の社会党出身の内閣総理大臣でもある初代党首の片山哲が「中国建国10周年慶祝代表団団長」として訪中し[67][68]、社会党最後の党首で首相でもあった村山富市も度々中国の軍事パレードに招待されているように[69]、常に強い繋がりを維持していた。社会党は「野党外交」を展開できるメリットがあったともいえる。 1970年代に日本と国交を樹立し(日中国交正常化)、文化大革命が終結すると、廖承志の復権(中日友好協会の初代会長へ就任)や両国指導者の相互訪問の増加などで中国共産党と日本社会との関係は再び深まり、社会党だけでなく、自由民主党や公明党、民社党なども対象としてより多層に広がっていき、平和条約交渉も妥結して日中平和友好条約も締結された。
党員
腐敗
日本との関係
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