中国共産党
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ソ連において1934年から続く内務人民委員部により、イギリス・ドイツ・日本と関係を結んだ右翼=トロツキスト・ブロック、資本主義の復活を企む右翼の社会革命党(エス・エル党)および革命的祖国敗北主義により再共産主義革命を企むトロツキストが組んだもの[32]とされた人民がソ連共産党書記長ヨシフ・スターリンによる恐怖政治大粛清されるなか、太平洋労働組合書記局はウラジオストクでプロフィンテルンの巻き返しを図るが、1937年にプロフィンテルンが解散となる。1936年、パーベル・ミフは、『中國共産黨 英勇奮鬪的十五年』[35]を出版するが[36]、1938年7月、КРТОへ参加したとしてソ連の内務人民委員部に処刑される[37]1940年8月にはトロツキーも暗殺された。

1940年10月から始まるナチ党アドルフ・ヒトラー総統率いるナチス・ドイツモスクワ侵攻に対し、アメリカ民主党フランクリン・ルーズベルト政権はソ連の支援を始めた[38]。更に、アメリカ政府は独ソ戦におけるソ連軍への支援の際に、ソ連政府に対して「極東の安全は英米が守るのでソ連極東軍を西部のドイツ戦線に移動すべし」と主張していた[38]ほか、1941年7月20日にアメリカ政府による支援が内戦に使用されることは許容できないとして、中国国民党に中国共産党との和平を促す声明を発表した[38]1942年より、毛沢東は整風運動を行い、ミフ派を中心とするコミンテルンの影響を排除した。戦時下の1943年、コミンテルンが解散となる。

1945年、第7回党大会で毛沢東思想が党規約に指導理念として加えられ、6月19日の第7期1中全会において、毛沢東は党の最高職である中央委員会主席に就任した。
国共内戦

1945年日本第二次世界大戦で敗北し、セミョーノフが捕らえられて中国国内の日本軍隊が全面降伏すると、それまでの国民党との妥協的態度から、ソ連の後押しで国民政府打倒共産党政権設立に動いた。内戦を回避したいアメリカ等の意向もあり、毛沢東?介石の会談による双十協定などでの妥協が図られたが、結局は国共内戦に突入した。

満洲を占領したソ連の後押しにより東北から南下して国民党軍を圧倒し、最終的に国民政府を打倒して1949年10月1日中華人民共和国を建国した。国民政府は根拠地を台湾中華民国政府)へ移転した。
内戦でのアメリカの傍観への疑義

1945年12月、アメリカの元陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルは大統領のハリー・トルーマンから中国における全権特使に任命され、13ヶ月中国に滞在したが、ソ連とアメリカで世界分割を行う密約を行っていた外交問題評議会(CFR)、太平洋問題調査会(IPR)の勢力に組した彼は「内戦において本来劣勢であった共産党が優勢となるような行動を意図的に取った」と言う主張があり、下記の点が指摘されている[39]。この疑惑は、後にアメリカ政界でジョセフ・マッカーシー議員によるマッカーシズム赤狩り)にまで発展した。

マーシャルは、国民党が有利な状況となると?介石に圧力をかけて再三停戦命令を出させ、国民党の優勢がピークとなった1946年末に、無条件の即時停戦命令まで下した。

マーシャルは中国での武器や弾薬の通商禁止措置を実施したが、それにより国民党が弱体化する状況で、ソ連が旧日本軍が満洲地域に残した物資やアメリカからの援助物資を共産党に横流しするのは全く黙認した。

1948年3月、アメリカ議会が国民党に対して2億7500万ドルの経済支援と1億2500万ドルの緊急軍事支援を議決したが、マーシャルと国務省の親中国派(=世界分割派)は、同年11月まで実施を意図的に遅延させた。この間に国民党軍の敗北が決定的となった。

国務省官僚を含む太平洋問題調査会(IPR)は、アメリカ国内で積極的な中国共産党擁護プロパガンダを展開した(IPRはマッカーシズムで攻撃され解散した)。

中華人民共和国の建国

1949年10月1日中華人民共和国の建国が北京で宣言された。中華人民共和国の建国によって政権政党となった中国共産党は朝鮮戦争での軍事介入やアジア・アフリカ会議への参加など積極的な外交活動を行った。特に第三世界の左派においては、毛沢東主義に基づく思想が大きな存在感を発揮した。

当初、ソ連をモデルとして社会主義建設が始まったものの、1956年フルシチョフによるスターリン批判以降はソビエト連邦共産党との関係が悪化し、1960年からは公開論争にまで発展し(中ソ論争)、武力衝突までに至った。「中ソ対立」および「中ソ国境紛争」も参照
文化大革命詳細は「文化大革命」を参照

1950年代後半より毛沢東は国力でアメリカ・イギリスを追い抜く事を目指し大躍進政策を行うも悲惨な失敗に終わり(中華人民共和国大飢饉)、毛沢東は唯一の自己批判を行って一度は政治の表舞台から姿を消すも、密かに復権を画策した毛沢東が紅衛兵を操り、1966年に発動した文化大革命でその混乱は極に達した。

毛沢東批判さえしなければ共産党ですら批判してもよいということになり、これまで政治的な発言が制限されてきた民衆の欝憤が一気に爆発した。全国各地に張り巡らされていた既存の党委員会は解体され、代わって革命委員会が設立されるようになる。

大躍進政策の失敗後、経済の調整に取り組んできた国家主席劉少奇は毛沢東から打倒すべき筆頭とみなされ、失脚の後に獄死した。ケ小平も失脚し、地方で労役に従事させられた(1973年に復帰)。

また、1971年に毛沢東の後継者と第9回党大会で指名された林彪およびその側近は毛沢東暗殺を画策するも失敗し、飛行機でソ連へ逃亡途中にモンゴルで墜落死した(林彪事件)。

共産党内部における抗争を制した毛沢東は、ソ連との敵対関係(ダマンスキー島事件を参照)をより差し迫った脅威であると認識し1971年アルバニア決議国際連合に加盟して国際社会に参加し、1972年アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソン中華人民共和国訪問や、日本との国交回復を実現するなどの外交政策の大転換を行った。

1976年に毛沢東が死去すると文化大革命推進派は力を失い、毛沢東の妻の江青など文革派の四人組は逮捕され、華国鋒体制が成立し、1977年に文革の終結が宣言された。
改革開放路線

1978年12月の第11期3中全会では、最終的に文革期の失脚から返り咲いたケ小平の指導体制が確立し、それまでの革命路線から改革開放・現代化路線へと大きく転換した。1981年文化大革命を完全に否定し、毛沢東の誤りを一部認めた(「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」)。


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