結党当初はコミンテルンの指導が強く、またソビエト連邦への留学生が党の中心勢力であった。コミンテルンは広大な農村社会を抱える中国の特殊性を理解せず、大都市の労働者による武装蜂起を中国革命の基本路線と考えた。当時の党指導部はコミンテルンの指導に忠実に従っただけだが、建国後以降の党は、当時の指導部に対して第一次国共合作期はその関係に固執しすぎたとし、また国共分裂後の初期の暴動路線に対して極左冒険主義に走りすぎ失敗を犯したとの評価をしている。中国共産党は数多くの都市暴動を画策したが、中華民国南京政府の軍隊による度重なる鎮圧により、十分な抵抗勢力とはなりえなかった。
このような中で毛沢東は一農村に拠点を置いて活動していた。そうした農民を対象とした社会主義化の動きは、それまでのマルクス主義やレーニン主義のように労働者階級を中心とするものとは異なっていた。当時の中国の人口の圧倒的多数を占めるのは農民であり、農民の支持なくして革命の実現はありえないと毛沢東は考えた。中華民国南京政府の軍隊、警察の捜索の及ばない省境界の山地を根拠地とした毛沢東らは「有土必豪無紳不劣 (土地を有するは必ず横暴で、紳の劣らぬこと無し)」として、小作人を扇動したため、小作人は解雇され共匪となった[29]。
1930年6月、中国共産党は直ちに武装蜂起し、1省又は数省の重要省区の首先的勝利を目指す李立三コースを取る[30]。1931年に毛沢東らは江西省瑞金において「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立した。
なおコミンテルンからの資金の授受は、上海にあるドイツ商の禪臣洋行(中国語版)を介して行われていると目されていた[31]。 日中戦争(支那事変)前に上海に設立されたプロフィンテルンのアジア太平洋支部である太平洋労働組合書記局書記のイレール・ヌーランが逮捕されるヌーラン事件が起き、中国国民党により向忠発が銃殺されて共産党幹部の逮捕が続くと、李立三コースを批判していたコミンテルン極東局を中心とするパーベル・ミフ派の勢力が強くなった[30]。共産党軍は国民党軍の包囲攻撃に抵抗することができず、1934年に瑞金の中央根拠地を放棄して逃避行を始めた(後に長征と称される)。その過程の1935年に開催された遵義会議において毛沢東の指導権が確立したと言われる。逃避行は奥地でソ連に近い陝西省延安に拠点を構えることで終わった。 1933年5月、ソ連のトロツキストと繋がりを持つとされる元ドイツ参謀のハンス・フォン・ゼークト[32]が中華民国の軍事顧問となった。1934年12月、日本人を中心に運営されていた満洲国は、元白軍司令官のグリゴリー・セミョーノフの参加する反ソ組織の白系露人事務局を設立し、1935年3月にソ連より中東鉄道およびその付属地を買収した (北満鉄道讓渡協定)。1935年5月2日、ゼークトの提案に基づき中華民国秘密警察の藍衣社が親日要人へのテロ事件を起こしたため日本は抗議し、1935年6月27日に日本と中華民国は梅津・何応欽協定を結び、その協定の中でソ連の偵察所であった張家口の徳華洋行
日中戦争期
ソ連において1934年から続く内務人民委員部により、イギリス・ドイツ・日本と関係を結んだ右翼=トロツキスト・ブロック、資本主義の復活を企む右翼の社会革命党(エス・エル党)および革命的祖国敗北主義により再共産主義革命を企むトロツキストが組んだもの[32]とされた人民がソ連共産党書記長ヨシフ・スターリンによる恐怖政治で大粛清されるなか、太平洋労働組合書記局はウラジオストクでプロフィンテルンの巻き返しを図るが、1937年にプロフィンテルンが解散となる。1936年、パーベル・ミフは、『中國共産黨 英勇奮鬪的十五年』[35]を出版するが[36]、1938年7月、КРТОへ参加したとしてソ連の内務人民委員部に処刑される[37]。1940年8月にはトロツキーも暗殺された。
1940年10月から始まるナチ党とアドルフ・ヒトラー総統率いるナチス・ドイツのモスクワ侵攻に対し、アメリカの民主党フランクリン・ルーズベルト政権はソ連の支援を始めた[38]。更に、アメリカ政府は独ソ戦におけるソ連軍への支援の際に、ソ連政府に対して「極東の安全は英米が守るのでソ連極東軍を西部のドイツ戦線に移動すべし」と主張していた[38]ほか、1941年7月20日にアメリカ政府による支援が内戦に使用されることは許容できないとして、中国国民党に中国共産党との和平を促す声明を発表した[38]。1942年より、毛沢東は整風運動を行い、ミフ派を中心とするコミンテルンの影響を排除した。戦時下の1943年、コミンテルンが解散となる。
1945年、第7回党大会で毛沢東思想が党規約に指導理念として加えられ、6月19日の第7期1中全会において、毛沢東は党の最高職である中央委員会主席に就任した。 1945年、日本が第二次世界大戦で敗北し、セミョーノフが捕らえられて中国国内の日本軍隊が全面降伏すると、それまでの国民党との妥協的態度から、ソ連の後押しで国民政府打倒共産党政権設立に動いた。内戦を回避したいアメリカ等の意向もあり、毛沢東と?介石の会談による双十協定などでの妥協が図られたが、結局は国共内戦に突入した。 満洲を占領したソ連の後押しにより東北から南下して国民党軍を圧倒し、最終的に国民政府を打倒して1949年10月1日に中華人民共和国を建国した。
国共内戦