中国人排斥法
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当時は第二次世界大戦の最中にあり、中国は枢軸国日本に対し合衆国と同盟関係にあったためである。マグヌソン法により、既に国内に居住している中国人は帰化が可能となったため、国外追放の恐れから解放。年間105名の中国人移民が割り当てられるも、大規模な移住は1965年国籍法まで起こらなかった。

カリフォルニア州では、排除が1943年に廃止されたという事実にもかかわらず、中国人が白人と結婚することを禁ずる法律が、1948年まで撤回されなかった[13][14]。なお他州(特に南部諸州)では同様の法律が、連邦最高裁判所が反混血法を違憲とした1967年まで存在した。

現在でさえ憲法の全条文で無効とされてはいるが、合衆国法典第8条第7章は「中国人の排除」から始まっている[15]。第8条(外国人及び国籍)における15章のうち、特定の国民や民族集団に焦点を当てた唯一の章である。
謝罪

アメリカ合衆国下院2012年6月18日女性連邦議員のジュディ・チュー(全米初の中国系連邦議会議員でもある[16])が提出した中国人排斥法に対する公式謝罪決議案を全会一致で[17]可決[18]。決議案は2011年10月にも上院で承認されている[19]

決議文では「米国が全ての人は生まれながらにして平等という原則の上に築かれていることに鑑み、下院はその人種を理由に一連の法律による被害を受けた華人におわびの意を表する」としている[16]一方、賠償の認可、支持については行わない方針で、反米的な要求の解決に用いることを禁じた[16]

チューは採択に際し、米国華人全国委員会を通じて160余りの華人団体から請願書を受け取っており、2011年5月26日下院議員2名と共に下院に決議案を提出[16]。審議過程では異議が出たものの、度重なる交渉の末、他の下院議員9名と共に最終的な決議案を下院司法委員会に出していた[16]。 
影響
中国における反米感情の高揚

1902年の法改正を含め一連の出来事により、1904年から1906年にかけて中国国内で合衆国産品のボイコットが高まることとなる。一部推計によると合衆国から中国への輸出が半分以下にまで激減したという[20]。この間中国政府は1891年、中国人排斥法の交渉中に乱暴狼藉を働いたため、ヘンリ・W・ブレア上院議員を駐中合衆国大使として受け入れることを拒否[21]
合衆国内の中国人

排斥法のみならずその後も続いた制限により、中国人共同体は萎縮を余儀無くされるが、中国からの移民の制限自体は1943年の同法廃止まで続く。法案可決に際しては公民権侵害に一致団結するも、本国の極貧状態を考えると「よりまし」と考える者も少なく無く、次第に収束を余儀無くされる[1]1910年から1940年にかけて、サンフランシスコ湾に浮かぶエンジェル島移民事務所は、56113名もの中国人移民のほとんどにとって法手続きの中心地であり、その30%は帰国を促された。同時に延べ175000人もの不法入国者が同島の収容所に収監[22]

官公庁が倒壊した1906年サンフランシスコ地震以後、中国系アメリカ人との家族的な紐帯を持った(要するに事実上の不法入国を行った)と主張する移民は多い。ただ、これらが本当かどうかを証明することは不可能である。

中国人排斥法は初めて大規模な違法人身売買をもたらしたが、当該行為は他の人種、民族集団にも広まっていった[23]。その後、1924年移民法によりあらゆる階級の中国人移民を排除し、他のアジア系移民集団にも制限が拡大[10]。これらの制限が20世紀半ばまに緩和するまで中国人移民は隔離生活を余儀無くされ、中華街で生き残る道を選ぶ[10]
合衆国における日本人移民の台頭

中国人排斥法は白人が直面していた問題を解決することは無かった。中国人に代わり、日本人が社会における中国人の役割を急速かつひたすらに引き受けたためである。社会の下層にとどまった中国人とは異なり、日本人の一部には事業を起こしたり、市場向け野菜栽培業者となることで、成り上がることさえ出来た者がいた[24]。しかしながら、日本人は後に1924年移民法(排日移民法)で格好の標的となり、東アジア全体からの移民が禁じられることとなる。
評価
賛成

産業資本家が中国人労働者を低賃金に据え置いていると見なしていた労働組合を含め(世界産業労働組合を除く[25])、同法を支持した者は多い[26]
批判

同時期に他民族の移住が無制限であったため[27]、反奴隷制、反帝国主義者のジョージ・フリスビー・ホアー上院議員(マサチューセッツ州選出)が中国人排斥法を「人種差別以外の何者でもない」と批判している[28]
関連項目

反中

黄禍論

白豪主義

苦力

アジア系アメリカ人

脚注^ a b c d e f gアメリカにおける中国人の法律上の地位越川純吉
^ Norton, Henry K. (1924). ⇒The Story of California From the Earliest Days to the Present. Chicago: A.C. McClurg & Co.. pp. 283?296. ⇒http://www.sfmuseum.net/hist6/chinhate.html 
^ a b c Kanazawa, Mark. "Immigration, Exclusion, and Taxation: Anti-Chinese Legislation in Gold Rush California". The Journal of Economic History, Vol. 65, No. 3 (Sep., 2005), pp. 779-805. Published by: Cambridge University Press on behalf of the Economic History Association.
^ “Text of the Chinese Exclusion Act” (PDF). University of California, Hastings College of the Law. 2014年5月5日時点の ⇒オリジナルよりアーカイブ。2014年5月5日閲覧。
^ Kearney, Denis (28 February 1878), ⇒Appeal from California. The Chinese Invasion. Workingmen’s Address, Indianapolis Times, ⇒http://historymatters.gmu.edu/d/5046/%7C 2014年5月5日閲覧。 
^ Miller, Joaquin. "The Chinese and the Exclusion Act". The North American Review, Vol. 173, No. 541 (Dec., 1901), pp. 782-789. Published by: University of Northern Iowa
^ “Constitution of the State of California, 1879”. 2013年5月16日時点の ⇒オリジナルよりアーカイブ。2014年5月18日閲覧。
^ Cole, L. Cheryl."Chinese Exclusion: The Capitalist Perspective of the Sacramento Union, 1850-1882".California History, Vol. 57, No. 1, The Chinese in California (Spring, 1978), pp. 8-31. Published by: California Historical Society


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