中国の筆跡一覧
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毛公鼎(もうこうてい)

西周時代後期の銅鼎。全高53.8 cm、口径47.9 cm、重さ34.7
kgの大型の器である。銘文は現存する金文中、最も長文で、32行、497字に達する。西周晩期は字体が崩れ、緊張感のないものが多く見られる中で、この銘は引き締まった正しい文字で書かれている。道光年間、陝西省岐山県より出土した[8][9]


散氏盤(さんしばん)

西周
脂、時代の銅盤。「散」とは氏族名で、同時にその支配していた国名でもある。銘文は19行、350字で、盤の内底に鋳出されている。文字は通例の金文に比べて字形が扁平で、右下がりの傾向がある。このような書風の金文は他に見ることの少ない珍しいものである。出土の事情は不明である[10][11]。銘文の内容は、渭水南岸沿いに、散氏と?(そく)氏とが隣接して所領をもっていたが、?氏側が散氏のを侵寇したというので訴訟となり、結果、?氏から散氏に賠償として田土をおくることになった経過である。さらに文末には、その引渡しを終えての?氏側の誓約文がある[12]



?季子白盤(かくきしはくばん)

西周時代後期の銅盤。「?」は国名、「季」は兄弟の中で最年少の者、「子白」は人名でこの器の製作者である。盤は普通、円形であるが、この盤は角に丸みをつけた楕円長方形という珍しい形をしており、口径は118.2 cmある。銘文の内容は、王の征伐の功績を頌したもので、8行、104字が縦約83.5 cmに納められている。字間と行間を大きく空けて並べてあり、引き締まった縦長の篆書に近い文字とやや古い感じのする扁平な文字が混在している。道光年間に陝西省
眉県で秣[13]の桶に使っていたのを発見された[14][15]



『史頌鼎銘』

大盂鼎銘

大克鼎銘

散氏盤銘

?季子白盤銘

石鼓文』(部分)

秦詳細は「中国の書道史#秦(篆書時代)」および「中国の書家一覧#秦」を参照

年代筆跡名筆者書体所蔵・法帖など
紀元前219年[16]始皇七刻石李斯小篆泰安博物館、中国国家博物館
紀元前221年以後[17]権量銘李斯小篆
紀元前227年 - 217年(推定)[18]雲夢秦簡不明古隷


泰山刻石』(部分)

権量銘


前漢詳細は「中国の書道史#前漢」および「中国の書家一覧#前漢」を参照

刻石年代筆跡名筆者書体所蔵・法帖など
紀元前158年群臣上?刻石不明篆隷河北省邯鄲市永年区木鶏室
紀元前149年魯霊光殿址刻石(ろれいこうでんしこくせき)不明古隷
紀元前68年楊量買山刻石(ようりょうばいざんこくせき)不明刻石中最古の八分
紀元前56年魯孝王刻石不明古隷山東省曲阜市孔廟
紀元前26年?孝禹刻石不明古隷山東省博物館


群臣上?刻石(ぐんしんじょうしゅうこくせき、『趙二十二年刻石』とも)

前漢最古の刻石で、1行、15文字、1字の大きさが約10 cmの大字である。書風はほぼ古隷であるが、所々に秦篆に近い文字もある。文頭の「趙廿二年…」に諸説あったが、前漢の趙王遂の22年(紀元前158年)ということになった。道光年間に出土。縦125.0 cm、横30.5 cm
[19][20]


魯孝王刻石(ろこうおうこくせき、『五鳳二年刻石』とも)

文は宮殿の建造物が完成したことを記している。書風は隷書としては早期のもので、篆書の筆意が残り、古意が多い。「年」の字の末筆を特に長く伸ばしている点は、
木簡などにも多く見られる。12世紀、曲阜の孔子廟の改修時に出土。3行13字。縦24.0 cm、横25.5 cm[21][22]


?孝禹刻石(ひょうこううこくせき)

墓碑の先例と推測されている。円頭の長石に、「河平三年八月丁亥、平邑侯里?孝禹」と2行に刻している
[23]



魯孝王刻石

木簡年代筆跡名筆者書体所蔵・法帖など
紀元前102年太初三年木簡(居延漢簡)不明
紀元前98年天漢三年木簡(敦煌漢簡)不明古隷
紀元前94年太始三年木簡(敦煌漢簡)不明八分
紀元前78年本始六年木簡(敦煌漢簡)不明古隷
紀元前57年五鳳元年木簡(敦煌漢簡)不明八分
紀元前46年初元三年木簡(居延漢簡)不明八分
紀元前29年建始四年木簡不明八分
紀元前28年河平元年木簡(楼蘭漢簡)不明八分

新詳細は「中国の書道史#新」を参照

年代筆跡名筆者書体所蔵・法帖など
9年嘉量銘不明小篆
14年天鳳元年木牘(敦煌漢簡)不明八分
16年?子侯刻石不明古隷山東省鄒城市孟廟


天鳳元年木牘(てんぽうがんねんもくとく)

兵器簿の見出し札で、木牘とは横幅の広い木簡のこと。『礼器碑』などの書風に近い洗練された隷書である[24]


?子侯刻石(らいしこうこくせき)

塚墓を作ったことを記念し記した古隷で、古雅あまりある傑作である。「始建国天鳳三年…」に始まる35字を、7行の罫内に配している。
山東省?県で発見された。縦45 cm、横70 cm[23][25]



?子侯刻石

後漢詳細は「中国の書道史#後漢」および「中国の書家一覧#後漢」を参照

年代筆跡名筆者書体所蔵・法帖など
52年頃三老諱字忌日記(さんろうきじきじっき)不明古隷浙江省杭州市西?印社
66年開通褒斜道刻石不明古隷陝西省漢中市博物館
76年大吉買山地記(だいきちばいざんちき)不明古隷
92年以後袁安碑不明小篆河南省博物館
117年以後袁敞碑不明小篆遼寧省博物館
117年祀三公山碑不明篆隷木?室
118年嵩山三闕銘不明小篆
143年北海相景君碑(ほっかいけいしょうくんひ)不明八分山東省済寧市博物館
148年石門頌不明八分陝西省漢中市博物館
153年乙瑛碑不明八分山東省曲阜市・漢魏碑刻陳列館
156年礼器碑不明八分山東省曲阜市・漢魏碑刻陳列館
159年以後張景造土牛碑(ちょうけいぞうどぎゅうひ)不明八分
164年孔宙碑不明八分山東省曲阜市孔廟
164年封龍山頌不明八分
165年西嶽華山廟碑蔡??八分台東区立書道博物館ほか


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