甲骨文金文
(殷)金文
(西周)金文
(春秋)金文
(戦国)簡帛
(楚国)簡牘
(秦国)『説文』
小篆『説文』
籀文『説文』
古文隷書草書行書楷書
篆書・隷書秦の刻石『石鼓文』(部分)
篆書という書体は広義には古文(甲骨文と金文)・籀文(大篆)・小篆のすべてを含むが、狭義では小篆を指す。金文と小篆の中間的書体である籀文の代表的な筆跡は戦国時代の秦の『石鼓文』であり、書道史にとって大変重要な遺物となっている。そして、この大篆を基に秦の始皇帝が李斯に命じてつくらせたのが小篆であり、秦の刻石などに筆跡が現存する。
隷書は狭義では八分隷(単に八分とも)を指すが、まずは篆書の速書きからの古隷に始まる。古隷には波磔がなく、これに波磔などの装飾がついて八分となり、前漢時代すでに常用されていたことが近年の発見によりわかっている。漢代に入ると隷書は造形美を追求する方向と、本来の速書きを具現化する方向とに分かれていく。前者は後漢に建碑が流行したこともあり、『曹全碑』や『張遷碑』など芸術品として完成度の高い八分の刻碑が作られた。後者は章草を経て草書へと変化していく[6]。 前漢の時、八分を速書きしてその点画を省略した章草と呼ばれる新書体が生まれた。章草には八分の特徴である波磔が残っており、その典型的な筆跡に皇象の『急就章』がある。これを見ると章草は隷書を基盤とし、かつ草書はこれを発展させたものであることが一目瞭然で、後漢末期には章草がさらに略化されて草書となった。さらにこの頃、速書体として楷書・行書も使用されるようになり、じつに後漢のうちに草書・行書・楷書の発生を認めることができる。 その後、鍾?の『宣示表』に代表される楷書が、わずかに隷意を感じさせながらもその完成の域に達し、六朝時代の北魏においては刻石や碑に相応しい峻険な六朝楷書という傑作が多く残された。日本で昭和時代から小中学校の教科書の手本に取り入れられた楷書の原形は欧陽詢の『九成宮醴泉銘』などの初唐の楷書で、これを見ると我々の用いている文字の基になっていることが分かる[6]。 行書・草書は、東晋の王羲之を中心とする貴族たちによって美しく洗練され、その王羲之の名筆には行書の『蘭亭序』や『集字聖教序』、草書の『十七帖』などが知られる。その他の草書作品としては、智永の『真草千字文』、孫過庭の『書譜』、懐素の『自叙帖』があり、『十七帖』と『真草千字文』は独草体、『書譜』は連綿草、『自叙帖』は狂草体という形容でその特徴が表現される[6]。 正体(せいたい、正書体・標準体とも)とは、各時代の正式書体のことである。周代は籀文、秦代は小篆、漢代は隷書、そして六朝時代は楷書が正体に昇格する。金石などに文字を刻するのは永久に遺こすことを目的にしているため、使用される書体はその時代の正体である。 行書・草書は正体を速書きするための俗体(補助体とも)として位置づけられ、正体に昇格することはなかったが、隷書の俗体として成立した草書は、逆にそのもとになった隷書に影響を及ぼして行書の発生を促し、行書もまた草書とともに隷書に影響を与えて楷書発生の要因となった[7]。 漢字の文字数は、甲骨文・金文にはいずれも約3,000字、重複を除けば合わせて4,000余の字数がある。文化の進展につれて象形文字だけでは思想の記録・伝達に不十分になったことから象形文字を基にして次々と新しい文字が作られた。
楷書・行書・草書
小篆『秦の刻石』(部分)
八分『曹全碑』(部分)
六朝楷書『元懐墓誌』(部分)
楷書『九成宮醴泉銘』(部分)欧陽詢書
行書『蘭亭序』(部分)王羲之
草書『十七帖』(部分)王羲之
草書と楷書『真草千字文』(部分)智永書
草書『書譜』(部分)孫過庭書
正体
文字数
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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