中台関係
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1949年5月20日、台湾全土に戒厳令が布告された(この戒厳令は、?経国政権末期の1987年7月にようやく解除された)。

1949年4月23日、中華民国の首都南京が陥落すると、まもなく毛沢東率いる中国共産党が中国大陸をほぼ掌握し、10月1日、中華人民共和国の建国を宣言。国民党政権は12月8日、台北遷都を決定した。?介石は台湾退却後も「中華民国こそが中国の正統政権」と主張し、台湾を「大陸反攻」の拠点と位置づけたのに対し、中国大陸の中華人民共和国政府は「台湾解放」を掲げた。こうして、中華人民共和国と中華民国が、それぞれ中国大陸と台湾を支配統治しつつ、互いに国家としての存在を否定し軍事的に対峙する「両岸関係」の歴史が始まった。
「解放台湾」と「反攻大陸」の時代(1949年?1978年)
アメリカの台湾海峡「中立化」

人民解放軍金門島上陸作戦では中華民国軍が激戦の末に勝利し、金門島を死守した(1949年10月25日古寧頭の戦い)ものの、国共内戦は台湾に退却した国民政府に不利な情勢が続いていた。1950年1月には国共の和平工作(双十協定)に失敗して国民党への援助を打ち切ったアメリカのトルーマン政権が台湾海峡に介入しないとする声明を発表。これに勢いづいた共産党中央は、人民解放軍に空軍海軍を創設して台湾の武力解放作戦に向けた準備を本格化させ、まず海南島浙江省沖・舟山群島を相次いで武力制圧した。

1950年6月朝鮮戦争が勃発。北朝鮮の進軍を「国際共産勢力の侵略」とみなしたトルーマン政権は、一転して台湾海峡に第七艦隊を派遣し、台湾海峡の中立化を宣言、「将来の台湾の地位は未定」と声明した(台湾地位未定論)。こうして、アメリカが米中全面戦争を恐れ、毛沢東政権による台湾侵攻と?介石政権による中国大陸反攻のいずれも認めない方針をとったことにより、共産党の台湾“解放”作戦は頓挫した。
台湾海峡危機

1953年7月の朝鮮戦争休戦1954年第一次インドシナ戦争停戦(ジュネーヴ協定)を受け、毛沢東は再び「台湾解放」を発令、1954年9月、人民解放軍は金門・馬祖への激しい砲撃を開始した(第一次台湾海峡危機)。翌年1月には一江山島を武力制圧、2月には大陳島を“解放”して(大陳島撤退作戦)、戦闘は終結した。

1951年から台湾への軍事支援を再開したアメリカは、1954年12月に米華相互防衛条約を締結し、台湾支援を本格化した。1958年8月23日、人民解放軍は突然、金門島に対する砲撃を開始し、いわゆる金門砲戦(八二三砲戦)が勃発し、金門島の海上封鎖が試みたが、アメリカ第7艦隊の支援を受けた中華民国国軍が海上輸送作戦を展開してこれを阻止した(第二次台湾海峡危機)。
第三次国共合作の模索

中国は1955年ころから表向きの方針を「武力解放」から「和平解放」に転じた。まず、周恩来首相が平和統一の話し合いを呼び掛けるとともに、国共内戦後アメリカに亡命した李宗仁元総統代行の秘書を通じて「第三次国共合作」による祖国統一を初提案した。毛沢東からは、国共内戦時の和平交渉団で国民党側の代表だった章士サを通じて、「国共合作による平和統一」「台湾への高度な自治権保証」など、後の「一国二制度」案の原型となる提案がなされた。その後も1960年、密使を通じて、「外交権以外の自治権保証」「台湾への資金援助」などの四項目を提案、1965年には「?介石の国民党総裁身分での大陸帰郷」「?介石の長男・?経国台湾省長への任命」「中華民国陸軍四個師団の存置」など六項目を提案した。このころ、中国共産党中央委員会は、「台湾をアメリカに渡すより?父子(?介石及び?経国)に残した方がよい」という台湾工作の大方針のもと、「一綱四目」(一綱:中台統一の原則、四目:軍政の?政権への委任、中国中央による台湾への経済支援、台湾の社会改革の尊重、中台スパイ合戦の中止)を台湾政策として確立していた。

これに対し、台湾の?介石は一貫して「大陸反攻」を掲げ、中国側の提案を拒否した。逆に1962年ころには、大躍進政策失敗を好機と捉えて大陸反攻を計画したが(国光計画)、全面戦争に発展することを恐れたアメリカ・ケネディ政権の反対で実行されなかった。その後も文化大革命の混乱に乗じて、「毛沢東討伐救国連合戦線」の結成を呼び掛けたり、人民解放軍将兵の寝返りを奨励するなどした。
台湾・国府の国際的孤立化

1949年以後、国民政府の実効支配は台湾とその周辺島嶼に限られていたが、あくまで「中国の正統政府」と自らを称し、アメリカの支援も背景に国連の議席や常任理事国としての地位を維持していた。また、「漢賊不両立」を掲げていた?介石は、「反乱団体」と位置づけていた中国共産党との外交関係の両立を拒否し、同様に中国も「二つの中国」に強く反対していたため、他国は中華人民共和国か中華民国かどちらか一方との外交関係を迫られ、中台間で「外交戦争」(外交関係の奪い合い)が展開されていた。

1950年代から中華民国と国交をもつ国は増え続け、1969年にピークの68カ国に達したが、1970年代に入ると「外交戦争」の形勢はにわかに逆転した。1970年、国連の中国代表権問題の表決で中共政権支持派が初めて優位になった。1971年には、アメリカ・ニクソン政権が対中接近政策に転換。国連も「?介石の代表を追放する」という内容の国際連合総会決議2758を可決、中華民国は自ら国連を脱退した。国交をもつ国の数も中国に逆転され、中華民国の国際的孤立は一気に深まった。
両岸交流の再開と「平和統一」をめぐる攻防(1979年?2000年)
一国二制度による平和統一提案

1979年1月、中国がアメリカとの国交を樹立すると、中国の最高指導者に復権したケ小平は、国家目標として「四つの近代化」と並んで「台湾の復帰による祖国統一の完成」を掲げ、訪米先で「二度と『台湾解放』という言葉を使わない」と言及して「平和統一」を全面的に打ち出した。全人代常務委員会も「台湾同胞に告げる書」を発表し、両岸の交流(三通四流[3])を呼び掛けた。さらに1981年9月には葉剣英全人代常務委員会委員長の名において「第三次国共合作」「三通四流」「台湾の高度の自治権の享受」など九項目を提案した(葉九点)。

これに対し、?介石の後を継いだ?経国総統は、中共政権とは絶対に「接触しない」「交渉しない」「妥協しない」という「三不政策(中国語版)」により中国側の提案を拒否。1982年に「三民主義による中国統一(三民主義統一中国(中国語版))」を対中政策として確立・堅持した。ケ小平はあきらめず、?経国との間で密使を通わせつつ、1983年6月、「国共両党の平等な対話」「台湾の司法権独立、軍隊保有の容認」「台湾当局の人事権の独立」など六項目を提案した(ケ六点)。一方では「二つの中国」につながる完全な自治権、三民主義による中国統一などに反対との立場も示し、「武力行使による統一」という選択肢も絶対に放棄しないとたびたび公言した。?経国も1987年から沈誠という密使を北京に派遣して交渉を行っていた。
中台交渉の開始

中国大陸とは対照的にアメリカの庇護のもと経済発展を遂げた台湾では、1970年代末から民主化運動が活発化した。?経国は政治改革を決断、1987年7月に38年間続いていた戒厳令を解除するとともに、集会・結社の自由、新聞発行の自由を認め、台湾住民の大陸訪問も解禁した。これにより1991年には台湾住民の大陸訪問が約100万人に達した。

1988年に?経国が死去し、副総統から昇格した本省人李登輝総統は、就任後まもなく「三不政策」の転換を図った。1989年5月、アジア開発銀行年次総会に当たり、台湾代表団が初めて北京に派遣され、人民大会堂中国国歌の演奏を起立して聴いた。1990年7月には対中政策を統括する国家統一委員会を、1991年1月には対中窓口機関として海峡交流基金会(海基会)を相次いで設立した。さらに、1991年5月、国共内戦への総動員体制の法的根拠となっていた動員戡乱時期臨時条款を約43年ぶりに廃止し、台湾が一方的に共産党との内戦状態の終了を宣言する形となった。


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