中原中也
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帰省した中也が痩せているのを案じた中原家は仕送りの額を増やしている。

1924年7月から11月まで京都に滞在した6歳年上の詩人、富永太郎と親交を結ぶ。富永太郎は連日中原の下宿を訪ねて語り合った。富永太郎が頼ってきたのは京都帝国大学文学部国文科在学中で立命館中学の非常勤講師を務めていた冨倉徳次郎だった。作文の時間、詩を書いてきた中也は冨倉の家に呼ばれるようになり、やがて大学生グループと展覧会を見に行ったり酒を飲んだりするようになる。中也は「ダダさん」の愛称で呼ばれた。12月初旬、富永太郎は東京に戻る。喀血したことを医師に診断してもらうためである。
上京

1925年、中学を4年で中退した[注釈 1]中也は、大学予科受験を理由に泰子と上京する。日本大学早稲田大学を希望していたが、書類不足や遅刻で受験できず、予備校に通うという条件で仕送りを受け、東京住まいをはじめた。富永太郎の紹介で東京帝国大学文学部仏文科1年の 小林秀雄と知り合う。11月富永太郎が結核で死去。同じ頃泰子が中也のもとを去り、小林と同棲する。

1926年、日本大学予科文科(戦後の日本大学文理学部)に入学するも1科目も試験を受けぬまま、9月退学。実家には知らせなかった。その後アテネ・フランセ(旧・東京外国語学校予科私立高等仏語部)に通いフランス語を学ぶ。富永太郎や小林が参加していた同人雑誌『山繭』に「夭折した富永」を寄稿。東京で中原の書いたものが活字になったのはこれがはじめてである。翌年の10月、高橋新吉を訪問。また自分の詩集の刊行を考えはじめる。

1928年5月4日に前衛音楽グループ「スルヤ」の第二回発表演奏会で、諸井三郎が中原の「臨終」「朝の歌」に曲をつけて歌う。中也は前年知り合った河上徹太郎を通じて、詩を持ち込み曲をつけてくれと頼んでいた。3月に往診先で倒れた謙助は病床で印刷された歌詞を読んで涙を流したという。5月16日謙助が死去。中也は謙助が倒れてから月に1度見舞いに帰省していたが、母のフクは世間の目を気にして葬式には帰らせず、喪主である中也は病気であるということにして取り繕った。謙助の一周忌には、中也が中学2年の時に書いた「中原家累代之墓」を墓碑に刻んだ[注釈 2]

この頃、宮沢賢治の詩集『春と修羅』に感じるところがあり、大岡昇平によると渋谷の夜店にあったゾッキ屋で1冊5銭で投げ売りされていた同書を複数買い込んで、1冊を大岡に渡し、残りは「誰かにやるのだ」と言って持ち帰ったという[3]。中也は、のちに賢治の最初の全集が刊行されたあとに「宮澤賢治全集」など賢治に言及した文章を3つ残している[3][4]
同人と雌伏

1929年4月、同人雑誌『白痴群』創刊。同人は中也の他に河上徹太郎、村井康男、内海誓一郎、阿部六郎、古谷綱武安原喜弘大岡昇平、富永次郎が参加。後に『山羊の歌』に収録される詩や翻訳を毎号発表。しかし中原が大岡、富永次郎と争ったり、原稿の集まりが悪くなったりしたことで、翌年4月に6号を出して廃刊となった。以後「雌伏」の時期となり、詩作が止まる。

1930年、9月に中央大学予科に編入学。12月、小林と別れた泰子が築地小劇場の演出家山川幸世の子を出産。中也はその子に「茂樹」と名づける。種痘を勧めたり、あせもや小さな傷を気遣う手紙を書いたり、時には一日預かるなど可愛がった。

1931年、中大予科に籍を置いたまま、東京外国語学校専修科仏語部(現・東京外国語大学)に入学。授業は午後5時から2時間だけの夜学だった。中也はフランスに留学するため、外務書記生の試験を受けようと考えていた。9月26日、4歳下の弟恰三(こうぞう)が肺結核で死去。父の死に目に会えなかった中也は恰三を見舞ったあと、母のフクに「もし恰ちゃんが死んだら、こんどは死に顔をぼくに見せてから焼場へつれてってください」と伝えて上京。フクは言われたとおり恰三が亡くなると中也を呼び戻し、死に顔を見せてから焼場へ連れていった。中也は泣かなかったが「恰三のことがかわいそうでならぬといったふう」だったという[5]

1932年、6月に初の詩集『山羊の歌』の出版を計画。1口4円で150口、600円集まれば200部印刷する予定だったが、申し込みは知人10名ほどで、7月にもう一度募集を出したが、申し込みはなかった。中也と親しい大岡らは払い込んでもどうせ飲んでしまうに決まっているとの判断だった。フクからも300円送ってもらったが、製本まで資金が足りず、刷り上った本文と紙型を安原喜弘が預かっている。このころノイローゼになり、強迫観念や幻聴があったが、年末から年明けの帰省で回復。

1933年、3月に東京外語専修科を中程度の成績で卒業。外務書記生の道はあきらめ、近所の学生にフランス語を教えて小遣いを得ていた。『山羊の歌』を出版するべく、出版社に持ち込むがうまくいかなかった。12月、『ランボオ詩集〈学校時代の歌〉』の翻訳を三笠書房より刊行。この翻訳がはじめての商業出版である。本が売れたことで中也は小林秀雄とともにランボーの代表的訳者として名を残すことになった。無印税だったが、中也はこの訳詩集を中原本家はもちろん遠い係累にまで送った[6]

同じく12月、遠縁にあたる6歳下の上野孝子と結婚。中原思郎著『兄中原中也と祖先たち』59頁によると、「中也は、上野孝子との結婚において、最も素直な子であった。母のなすがままになっていた。孝子が気にいったからかもしれないが、母から金をせしめたとき以外は、すべてについて必ず一言あった中也が、結婚については全く従順な息子であった。中也の七不思議というものがあるとすれば、素直な結婚はその一つの不思議である。見合いは吉敷の親戚中村家で行われた。上野孝子は下殿中原家の親類筋にあたる。中原系族間の結婚である。」という。中原家地元の温泉旅館「西村屋[7]で身内だけの結婚式と盛大な披露宴を行った[8][9]あと上京。
『山羊の歌』出版と夭折

1934年、10月に孝子が郷里で長男・文也(ふみや)を出産。11月『山羊の歌』が野々上慶一の文圃堂から出版されることが決まる。


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