中京商対明石中延長25回
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計800800191037


選手交代

三:松下-永尾(4回裏)

左:田口-深瀬(7回裏)


野選:永尾(23回裏)、中田(25回裏)

併殺:4(峯本-横内2:8回裏・10回裏、中田-永尾:9回裏、中田-横内:16回裏)

残塁:15

中京商選手成績

打順位置氏名学年打数得点安打打点犠打三振四死球盗塁失策
1右大野木浜市3年1000003100
2三福谷正雄4年900001100
3投吉田正男5年801001200
4遊杉浦清5年801020020
5一田中隆弘4年801003200
6二神谷春雄3年1000002000
7左岡田篤治3年700000000
前田利春4年210000100
8捕野口明4年903000100
9中鬼頭数雄4年801020000
計79170410820


選手交代

左:岡田-前田(20回表)


暴投:吉田(14回表)

捕逸:野口(1回表)

併殺:0

残塁:18

試合運営に関して

当時スコアボードは16回までしかなく、17回以降は球場職員が「0」の表示のスコアボードを釘で打ちつけながら継ぎ足していった。さらにそれがなくなるとペンキで書いて継ぎ足した[注釈 3]

当時の延長戦の最長記録は第12回大会における静岡中対前橋中の19回だった。20回を越えた頃に大会本部が選手の健康管理上の問題から「打ち切り再試合」を検討、両校に「試合中断」を打診するも、ともに返ってきたのは「相手が『やめる』といわない限り、うちはやめない」という回答だった[5]。大会本部は「勝負がつかなくても25回で打ち切る」と決定、25回表の明石中の攻撃中に両校に通達した。しかし明石中ナインには知らされていたものの、中京商ナインには、チームの戦略上の狙いがあったのか知らされておらず、杉浦は「そんな事は全然知らなかったね。」吉田は「何回でも投げるつもりでいた。」という[2]
ラジオ放送

中継放送は社団法人日本放送協会のラジオ(現在のNHKラジオ第1放送)でおこなわれ、アナウンサー高野国本が1人で1回から25回までを担当した。途中で他のアナウンサーが交代を申し出るも、本人が「選手ががんばっているのにアナウンサーが止めるわけにはいかない」と語ったという。「スコアボードのおかしな所に0が出まして、これは押さえる所がなくて人間が1人この0を押さえております[注釈 4]。」「(声をからして)全選手も、アンパイアも全観衆もヘトヘトです[1] 。」「(試合終了の瞬間)あっ。セーフ、ホームイン、ホームイン。ゲームセット、ゲームセット。、6時3、6時4分。遂に延長25回1アルファ対0。満塁の時の、大野木君のセカンドゴロ、セカンドバックホーム致しましたが、歴史的この大試合、遂に中京勝ったのでございます。1アルファ対0、1アルファ対0。」

当日名古屋でこのラジオ中継を1時間半聞き、その後東海道本線の列車で大阪駅に着いた人が、野球放送を聞いてまだ続いているのかと驚いたという。当時は名古屋から大阪までは3時間ほどかかった[1][注釈 5]
出場選手の証言

明石中の中田は、20回を過ぎた位から疲労がピークに達し、「20回位までは、球も思うように投げられたが、それ以降は手がしびれて感覚がなくなり、勝ち負けよりも早く試合が終わってくれればよいと思った」と振り返った[2][注釈 6]。「25回まで得点を許さなかったのは神様の加護。この記録を作り得たのは無上の光栄」という言葉を残した[5]

試合を決めた大野木は、9回無死満塁での神谷のピッチャーライナー併殺を三塁コーチとして目の当たりにしており、併殺を嫌って25回裏の打席では「実は三振しようと思っていた」という。事実2ストライクを取られた直後、次の福谷に「おれは三振する。後は任せた。」と告げた。ただ福谷が返事をしなかったため「『それならおれが決めてやろう』という気になった。開き直って思いっ切り振る事だけに集中した。もし福谷が『俺に任せろ』と言っていたら、間違いなく三振していた」という。打った球種は「外角へのボール気味のカーブ」、打った状況は「短く持っていたバットを投げ出すように振った」という[2]

勝敗が決した際、疲れていたのか、両者ともに実感が湧かなかった選手がいた。後日、中京商・吉田は「とにかく勝ったような気がしなかった」。一方の明石中・横内も同じく「おかしな話だが、次の日も試合があると思っていた。ベンチに引き上げても『負けた』という実感はなかったんだ」と語っている[2]

後日、中京商の杉浦はこの試合の勝因として中京商の堅い守りを挙げ「25回戦ってエラーがなかった事」と語り、明石中側の選手も、深瀬が「(中京商の)三遊間は抜ける気がしなかった」、横内も「(中京商の吉田に対する)投前犠打は決まったように二封された」と証言している。事実明石中の敗戦はエラーによるもの。また中京商の守備では、記録には表れない好守備(牽制刺殺、犠打封殺など)も随所に見られた[2]

中京商は長引く延長戦に、負けはもちろん「絶対に引き分けるわけにはいかない」と誓いあっていた。杉浦は後日「明石は中田と楠本という二人のピッチャーがいるが、うちはヨシさん(吉田)一人だから絶対に引き分けに持ち込んだらいかん、といいあっていましたよ」と発言している[2]
両校関係者のその後

当試合の翌日、中京商は平安中と決勝戦を戦い、見事に勝って現在まで史上唯一である前人未到の3連覇の偉業を達成した。

中京商と明石中は、この年の秋に開催された第7回明治神宮競技大会野球競技の決勝で対戦、先発は同じく明石中・中田と中京商・吉田。先攻、後攻も同じ。同じ学校同士の、同年3回目の因縁の対決は大観衆を集め、事前の予測通り接戦となり3x-2で中京商が勝利、決勝打を放ったのはまたも大野木であった。

試合に参加した両校選手のうち、明石中の楠本、中田、松下、中京商の鬼頭、神谷、福谷、加藤、花木の8人は、後に戦死した[6]

勝利を決めるセカンドゴロを放った大野木浜市が、中京商側の選手の最後の生存者となった(2004年7月5日肺炎のため88歳で死去)。

両校の参加全選手中、最後の生存者は、明石中の敗戦の原因となる判断ミスをした嘉藤栄吉で、2008年6月28日午前2時35分、前立腺癌のため90歳で死去した。

中京商業のウィニングボールは杉浦が保有していたが、杉浦の没後、1988年2月1日に遺族から母校に寄贈され、今も中京大中京高に保管されている[2]
関連書籍

浜野卓也・成瀬数富『いつか見た甲子園―悲運の剛球投手楠本保の生涯』 くもん出版、1992年、ISBN 978-4-87576-234-8

朝日新聞社高校野球検定委員会(監修)『高校野球検定公式テキスト』第1刷 朝日新聞出版

『甲子園 激闘!「最終回」伝説』洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2010年、p.89 ISBN 978-4-86248-578-6

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 延長25回は甲子園ではこの試合のみだが、この後選手権大会の県予選で2回、春季地方大会まで含めると4回記録されている。


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