日本の歴史における古代・中世・近代の区分は、西洋の歴史学をモデルとした明治以降の近代歴史学が使い始めた。具体的には、1906年(明治39年)に歴史学者の原勝郎が初めて「中世」の歴史区分を用いた[9]。武家政権の存在した期間にヨーロッパ中世の騎士・封建制(主従制)・荘園制との類似点を見出だし、鎌倉幕府の成立(1185)から室町幕府の滅亡(1573年)まで、すなわち鎌倉時代と室町時代(戦国時代まで含む)を合わせたおよそ4世紀の期間を中世と定義するのが一般的であった。南北朝時代を挟んで中世前期・中世後期に区分される。
ここに定義された「中世」は政治史的に武家政権(幕府)による支配を特徴としており、天皇の政権(朝廷)が全国を統合していた古代(大和時代・奈良時代・平安時代)と区別された。また武家政権の存在した時期でも、中世的支配構造が解体された後、強力な中央政権(あるいは連邦政権)によって新たな支配構造が形成される近世(安土桃山時代・江戸時代)を区別する。
平安時代末期、中央(朝廷)による支配は諸国の武士(在地領主)の離反のために危機に瀕していた。院政・平氏政権による試みを経て、源頼朝は所領安堵を媒介とする武家の棟梁と御家人の主従制を、日本国惣地頭
(将軍)による地頭職補任の形式をもって国制化し、在地領主層の政治的統合を一定程度達成した。これが中世国家における全国支配のありようの主要部分をなした(ただ在庁官人・荘官などで地頭に補任されず将軍と主従関係を持たない非御家人も少なくなかった)。南北朝内乱の過程で、守護は軍事指揮権行使や半済令などを足がかりに任国における上級領主(守護大名)へと性格を改め(守護領国制)、全国支配は足利将軍の下の守護(および鎌倉公方・九州探題など)が分掌する形に移行していった。守護所と並存していた国衙の権限は侵奪され、国衙領(公領)も守護領に転換した。公領・荘園の在地領主であった在庁官人も荘官も、地頭御家人・非御家人の別なく同質に国人(国衆)と呼ばれる存在になっていたが、守護はこれらの被官化に努めた。やがて室町幕府の支配力の縮小により、自立的権力としての性格を強める守護・守護代あるいは国人からも戦国大名化するものが広汎に現れて全国支配は全く形骸化し、織田信長・豊臣秀吉による再統合(天下統一)の時を迎えるに至る。しかし、こうした見方はあまりに政治史的であり、また鎌倉幕府の成立時期や平氏政権の評価について異論が出され、武士の発生過程も見直されるなどして、従来の区分は広く受け容れられなくなった。
そして、中世を通じて支配の基層にあった在地領主(御家人・非御家人 → 国人)や、その領主的所有・支配の対象であり中世的な重層的土地収益権(職の体系)が成立した公領・荘園を重視する社会経済史・土地制度史
面からの捉え方により、荘園公領制が確立した院政期を中世初期に含める見解が有力になり、学校教育においても、すでに1980年代頃からこれに沿った構成を取る教科書が増えている。さらに遡って、律令制から王朝国家体制に移行する平安中期を発端とする意見もある[10]。平安時代は古代から中世への過渡期と考えられ、どちらに分類するかはいまだに議論があり、中立的な概念として、古くから主に文学史の世界で使われてきた「中古」という語を用いることもある。中世と近世との画期をどの時点に求めるかについては、(1)統一事業に乗り出す織田政権が姿を現した信長上洛(1568年)、(2)太閤検地で荘園公領制を最終的に解体した豊臣政権による全国統一(1590年)、(3)幕藩体制による全国支配を確立する江戸幕府の成立(1603年)などさまざまな見解がある。 中国の歴史における中世の概念は、内藤湖南の『支那近世史』(内藤1909 - 1919)に始まる。内藤は後漢の中ごろまでを上古、魏晋南北朝時代から唐中期までを中古、宋以降を近世とする。
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