近年では、これまでの古代 → 中世 → 近代の三時代区分に新たに近世(early modern period)という時代区分を加え、ルネサンスから絶対王政の終焉までをこの近世、それ以降を近代と考えることが主流となりつつある。 日本の中世とは、院政期から戦国時代までの11世紀後半から16世紀後半までの期間を指す日本の歴史における時代区分である[7]。これは土地制度(荘園制)に基づいた時代区分であり、荘民が存在せず田地のみが広がる免田・寄人型荘園から、村落なども囲い込んだ領域型荘園への移行を画期とする。戦国期に入り動揺を見せていた荘園制は、豊臣秀吉による太閤検地の実施と石高制の成立により解体し、日本の中世は終焉を迎えた[8]。 日本の歴史における古代・中世・近代の区分は、西洋の歴史学をモデルとした明治以降の近代歴史学が使い始めた。具体的には、1906年(明治39年)に歴史学者の原勝郎が初めて「中世」の歴史区分を用いた[9]。武家政権の存在した期間にヨーロッパ中世の騎士・封建制(主従制)・荘園制との類似点を見出だし、鎌倉幕府の成立(1185)から室町幕府の滅亡(1573年)まで、すなわち鎌倉時代と室町時代(戦国時代まで含む)を合わせたおよそ4世紀の期間を中世と定義するのが一般的であった。南北朝時代を挟んで中世前期・中世後期に区分される。 ここに定義された「中世」は政治史的に武家政権(幕府)による支配を特徴としており、天皇の政権(朝廷)が全国を統合していた古代(大和時代・奈良時代・平安時代)と区別された。また武家政権の存在した時期でも、中世的支配構造が解体された後、強力な中央政権(あるいは連邦政権)によって新たな支配構造が形成される近世(安土桃山時代・江戸時代)を区別する。 平安時代末期、中央(朝廷)による支配は諸国の武士(在地領主)の離反のために危機に瀕していた。院政・平氏政権による試みを経て、源頼朝は所領安堵を媒介とする武家の棟梁と御家人の主従制を、日本国惣地頭 しかし、こうした見方はあまりに政治史的であり、また鎌倉幕府の成立時期や平氏政権の評価について異論が出され、武士の発生過程も見直されるなどして、従来の区分は広く受け容れられなくなった。 そして、中世を通じて支配の基層にあった在地領主(御家人・非御家人 → 国人)や、その領主的所有・支配の対象であり中世的な重層的土地収益権(職の体系)が成立した公領・荘園を重視する社会経済史・土地制度史 中世と近世との画期をどの時点に求めるかについては、(1)統一事業に乗り出す織田政権が姿を現した信長上洛(1568年)、(2)太閤検地で荘園公領制を最終的に解体した豊臣政権による全国統一(1590年)、(3)幕藩体制による全国支配を確立する江戸幕府の成立(1603年)などさまざまな見解がある。 中国の歴史における中世の概念は、内藤湖南の『支那近世史』(内藤1909 - 1919)に始まる。内藤は後漢の中ごろまでを上古、魏晋南北朝時代から唐中期までを中古、宋以降を近世とする。上古・中古はそれぞれ古代・中世と言い換えて間違いは無い。この観点は主に京都大学出身者によって作られる京都学派によって発展を遂げる。その代表を挙げるとすれば宮崎市定である。 これに対して戦後、前田直典によって唐の中期までを古代、宋以降を中世とする論が出され、大きな論戦を引き起こした(中国史時代区分論争)。唐中期までを古代とする論はその後、西嶋定生・堀敏一らの歴史学研究会を中心とする東京学派の手によって発展していき、京都学派との長い論戦が続いた。 しかし1970年代ごろからは実証主義的な立場からこのような「大きな物語」に対する批判が生じ、分野の細分化が進み、時代区分論争のような大きな枠組みの研究は少なくなった。 前出の「中世イスラム」とは、ファーティマ朝成立(909年)やブワイフ朝のバグダード入城(945年)、セルジューク朝の帝国成立(1055年のバグダード入城)など、アッバース朝の形骸化によりいわゆるイスラム帝国という世界帝国が瓦解した時期から、オスマン帝国がトルコの地域国家を超えてイスラム世界帝国を確立した時期(1517年のマムルーク朝の滅亡)までを指すことが多い。
日本
中世区分の導入
古代との画期の見直し
近世との画期
中国
イスラム世界
脚注[脚注の使い方]
出典^ ⇒Online Etymology Dictionary
^ ⇒Merriam-Webster Dictionary。
^ ⇒Dictionary.com
^ Piispa Henrik kastaa suomalaisia Kupittaan lahteella Turussa
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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