中世西洋音楽
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中でもレオ1世は、西ローマ皇帝が何もできないなか、二度にわたって蛮族と直接交渉してローマを守るなど世俗面でも活躍し、カトリック教会ローマ教皇の権威を大いに高めた[24]

一方、376年にはゲルマン民族の大移動が始まり、395年に分裂してできた西ローマ帝国領内に侵入を繰り返し、帝国領内にゲルマン人国家を形成していく[25]。476年にはオドアケルが西ローマ皇帝を廃位し[25]、6世紀のゴート族東ローマ帝国の占領と破壊はローマを廃墟同然としたが[26]、ローマ史の伝統はローマ教皇の歴史に受け継がれていく[27]。またゲルマン人国家のうちフランク王国は486年にシアグリウスのローマ人国家を滅ぼして以降拡大を続け[28]、やがて西ヨーロッパの大部分の政治的統一を達成する[29]
宗教音楽

キリスト教に先立つユダヤ教において既に旧約聖書詩篇を歌う習慣があり[30]新約聖書にもイエスが弟子たちと共に最後の晩餐の後に(おそらく)詩篇を歌う場面がある[31]。古代においてキリスト教の中心だったのは東方であったが、西方においてもその伝統を受け入れる形で、4世紀以降、ミラノアンブロジオ聖歌[注釈 2]、アルプス北方のガリア聖歌、スペインのモサラベ聖歌[注釈 3]などの地方的な典礼が形成されていった[32]。4?5世紀の教父アウグスティヌスの著作《告白》には〈少し前からミラノの教会では,多数の聖職者が声と心を聖なる熱心でひとつにあわせ,人の心を慰め教化する旋律で礼拝を行うようになった。…この頃、東方教会の慣習にならって、会衆の心が悲しみに沈み、飽き飽きしないようにと、賛歌と詩篇の歌が採り入れられたのである〉とある[31]

3世紀末以降、キリスト教への改宗者の増加に伴い、キリスト教社会は緊張を欠くようになったが、一部の熱心な信者が都市から離れ荒野で過酷な貧困生活を送って修行するようになり[33]隠修士[34]、やがて彼らをまとめて宗教的な共同生活を送る集団が現れた[34]。こうして建てられたのが修道院で、各地に多くの修道院が創設されたが、その中でも529年頃に建てられたモンテ・カッシーノ修道院は音楽においても重要な修道院である[33]。創始者の聖ベネディクトゥスがつくった戒律では、日常の礼拝が音楽と深く関係づけられていた[33]。また彼が創立したベネディクト会はヨーロッパの修道院の規範となった[35]

590年に教皇に選出されたグレゴリウス1世は、数々の業績と心の広さと共感できる人柄などによって当時の人々に大変愛され[36]、実質的な最初のローマ教皇とされるが[37]、音楽においては典礼音楽の発展に力を尽くし[38]、スコラ・カントルム(「歌手の学校」の意)と呼ばれる聖歌学校を整備・拡充した[39]。後のグレゴリオ聖歌は、彼の名にちなんでいる[40]

アウグスティヌスは〈歌の内容にではなくて、歌そのものに感動したときには、罪を犯したような気持になる〉という言葉を残しており、礼拝に対して音楽を使うことへの懐疑はこの後も折に触れて西方のキリスト教世界で思い出されることになる[39]。また6世紀初頭のボエティウスの「音楽教程」は、ギリシャ時代の代表的な音楽論を伝え[41]、音楽を「世界を調律している秩序」と捉え、音楽を「宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ、四季の変化や天体の運行などを司る秩序)」「人間の音楽(ムジカ・フマーナ、人間の心身の秩序を司る秩序で乱れると病気になったり性格が曲がったりする)」「楽器の音楽(ムジカ・インストゥルメンターリス、実際に鳴る音楽で、声楽も含まれる)」に分類し、実際に鳴る音楽を最も下位に置いた[42]。これは中世を通じて広く読まれ、中世の音楽に対する基本的な考えとなった[41]
世俗音楽

一方、都市と群衆が成立した古代ギリシアからローマにかけ、ヨーロッパでは各地を渡り歩く職業芸人が隆盛を示していた[43]。軽業(かるわざ)、動物芸、奇術、音曲をはじめとして路上美術に至る、あらゆる種類の大道芸がこの時期に演じられている[43]。好ましい大道芸とされたのは、笛やシンバルを奏する街頭音楽と踊りであった。これらは精神を健全にする効果があると信じられ、教育的にも重視されたという[43]。以後中世を通じて世俗音楽が盛んであったことが種々の資料から推察される[13]
初期中世A 7世紀?850年
略史

イスラム教が創始され、イスラム帝国が拡大を始める[44]ウマイヤ朝は711年にイベリア半島に侵入し西ゴート王国を滅亡させたが[45]、732年のトゥール・ポアティエ間の戦いフランク王国に敗れた[46]。また西ゴート王国の残党は722年以降イスラム教徒への反撃を始める(国土回復運動[47]

一方、フランク王国ではカロリング朝の開祖ピピン3世が754年と756年にランゴバルド族を打ち破って獲得した土地を教皇に寄進し、ローマ教皇を元首とする国家(教皇領)が生まれた[48]。次のカール1世は戦争に明け暮れ、804年にザクセン人の征服を完了してフランク王国は最大となった[49]。また800年に西ローマ皇帝の冠を教皇レオ3世から授けられ、カール1世はカール大帝(シャルルマーニュ)となり、5世紀に滅亡した西ローマ帝国が復活した[49]。これにより、フランク王国・ローマ教皇ともに東ローマ帝国に対抗できる勢力となり、また古典古代ゲルマン人キリスト教からなる西ヨーロッパ文化圏が成立した[50]
グレゴリオ聖歌成立

グレゴリオ聖歌は単旋律・無伴奏で、ラテン語聖書からなる典礼文を歌詞とし[51]、8種類の教会旋法[注釈 4]に分類される[52]


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