十字軍は遠大な政治的・経済的・社会的影響があり、中には現代に至るまで続くものがある。キリスト教王国や政治権力の内紛の故に、十字軍遠征隊によっては第4回十字軍のようにキリスト教徒のコンスタンティノープル略奪やヴェネツィア共和国と十字軍の間の東ローマ帝国分割につながった本来の目的から逸脱した例がある。第6回十字軍は教皇の正式な呼びかけがなく始められた最初の十字軍であった[10]。第7回十字軍、第8回十字軍、第9回十字軍は、第9回十字軍が中東で十字軍の終わりを迎えて、マムルークとハフス朝の勝利で終わった[11]。 十字軍の関係では、中世後期の騎士団の模範となった騎士修道会が創設された。 テンプル騎士団は敵意を持つ地元民や山賊からキリスト教巡礼者を守るのを手伝うために第1回十字軍が終わると創設されたキリスト教軍事組織であった。この騎士団は金融業に深く関わっていて、1307年、フィリップ恐怖王(Philippe le Bel)は騎士団全員をフランスで逮捕し、異端の疑いで告発し解散させた。1314年に密かにクレメンス5世により赦免された。 聖ヨハネ騎士団は元々貧しい人や病人、聖地への傷ついた巡礼のために活動するために1080年にエルサレムで創設されたキリスト教組織であった。エルサレムが第1回十字軍に奪取されると、聖地の管理と防衛にあたる組織に変化した修道会や騎士修道会になった。聖地が結局イスラーム教徒に奪取されると、活動の場をロドス島に、後にマルタに移した。 ドイツ騎士団は聖地へのキリスト教巡礼者を援助し病人や怪我人のためにウトラメールで病院を運営するためにアッコ市で1190年に編成されたドイツ騎士団であった。イスラーム教徒が聖地を奪取すると、騎士団は1211年にトランシルヴァニアに移動し、後に破門されると、バルト海のキリスト教化を目指して異教徒のいるプロシアを侵略した。騎士団にとっての主要な異教徒リトアニア大公国がキリスト教に改宗する
騎士修道会
スコラ学詳細は「スコラ学」を参照
新しいキリスト教式学習方式は、初めは中世のユダヤ哲学やイスラーム教哲学(モーシェ・ベン=マイモーンやイブン・スィーナー、イブン・ルシュド) を通じて間接的に、それから東ローマ帝国やイスラーム教の図書館から取り戻したアリストテレス自身の著作を通じてアリストテレスの著作の再発見からアンセルムス(1033年?1109年)が影響されたものであり、影響を与えた人で最も有名なのが、アルベルトゥス・マグヌスやボナヴェントゥラ、ピエール・アベラールであった。スコラ学は経験論を信条とし、世俗の研究、理性、論理を通じてローマカトリックの教義を支援した。キリスト教神秘主義や二元論におけるプラトンやアウグスティヌスの信条、世界を本質的に悪と見る見方に反対した。