中世哲学
[Wikipedia|▼Menu]
トマス・アクィナスペトルス・ダミアニに追従して哲学は神学の婢(「ancilla theologiae」)だと主張した[5]

中世の哲学者たちの研究に通底する三つの原理として、「ratio」として知られる、真理を発見するために論理学弁証術分析を用いること、「auctoritas」、つまり特にアリストテレスやその他の権威ある古代の哲学者への識見への敬意、「concordia」、つまり哲学の識見と神学的な教え・啓示を調和させるという義務[6]がある。

この時期最もよく議論された話題の一つに信仰と理性の対立がある。イブン・スィーナーとイブン・ルシュドはどちらも理性の側に立って研究した。ヒッポのアウグスティヌスは自身の哲学的探求に神の権威の範囲を超えさせることは決してしないと述べた[7]アンセルムスは彼が部分的に信仰への攻撃とみなしたものに対して、信仰と理性の両方を考慮に入れたアプローチによって信仰を擁護しようとした[8]。信仰/理性の問題にアウグスティヌスの出した結論は(1)信仰し、そして(2)理解しようとするということであった。
歴史
中世初期のキリスト教哲学フローリアクム: 身廊

初期中世の前後の境界線に関しては論争がある[9]。一般的にはヒッポのアウグスティヌス(354年 - 430年)に始まると言われるが、アウグスティヌスは厳密に言えば古典時代に属する。そして、初期中世は、盛期中世が始まる11世紀後半の学問の再興が始まり、続いて行く頃に終わるとされる。

西ローマ帝国の崩壊後、西ローマはいわゆる暗黒時代に陥った。修道院は数少ない正規の学術的研究の中心地のひとつだった。このことはおそらくヌルシアのベネディクトゥスの定めた戒律や、四旬節の始まる日にめいめいの修道僧に本を与えるという彼の提案の結果であろうと推定されている。その戒律では修道僧は毎日聖書を読むことになっていた。後の時代には修道僧は行政官や聖職者を養成するのに利用された[10]

初期のキリスト教徒は、特に教父時代には、直観的・神秘的で、理性や論理的議論に基づかずに考える傾向があった。また、時に神秘的なプラトンの教義を重視し、体系的なアリストテレスの思想をあまり重視しなかった[11]。アリストテレスの著作の多くはこの時期西方では知られていなかった。学者たちはアリストテレスの『範疇論』、論理学関係の作品である『命題論』、そしてアリストテレスの範疇論の注釈書であるポルピュリオスの『エイサゴーゲー』などに基づいて議論していた(いずれもボエティウスによって翻訳された[12])。

中世哲学の発展に大きな影響を与えたローマ時代の哲学者が二人いる。ヒッポのアウグスティヌスとボエティウスである。アウグスティヌスは最大の教父とみなされている。彼は主に神学者で祈祷文の作者であったが、彼の著作の多くは哲学的である。彼の主題は真理、人の歴史の意味、国家、そして救済である。1000年にわたって、神学や哲学に関するラテン語の著作で彼の著作を引用したり彼の権威に頼ったりしていないものはほとんどなかった。彼の著作の中には、デカルトのような近世哲学に影響を及ぼしたものもある[13]。アニキウス・マンリウス・セウェリヌス・ボエティウス(480年 - 525年)はローマで古代から続く影響力の強い家に生まれたキリスト教哲学者である。彼は510年東ゴート王国執政官になった。彼の初期中世哲学への影響は注目されていて中世初期哲学が「ボエティウスの時代」呼ばれることもある[14]。彼はアリストテレスとプラトンの全ての著作を原典の古代ギリシア語からラテン語へ翻訳しようとし、実際に『命題論』や『範疇論』といったアリストテレスの多くの論理学関連の著作を翻訳した。また、彼はそれらの作品や(それ自体『範疇論』の注釈である)ポルピュリオスの『エイサゴーゲー』の注釈書を著した。これが中世西方世界に普遍論争を紹介した[15]

彼ら以降の中世初期は哲学が衰微した時代とされ、一部の有名な人物のものを除けばこの時代の哲学はしばしば専門家たちですら無視してきた[16]。その原因は、この時代の思想家が哲学を主題として執筆することがなく、彼らの哲学的思索は専ら神学、論理学、文法学、自然学といった個別的な主題をもった論文に見いだされることにある[16]「普遍としての人」ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの『神の業の書』(1165年)の彩飾

西方における研究活動の最初の注目すべき復興は、カール大帝がピサのピエトロやヨークのアルクィンの助言を受けてイングランドアイルランド(ヨーロッパ大陸での混乱を避けて学者たちがアイルランドへ逃げ去り、そこでラテン・ギリシア文化の伝統を護持したという説が歴史家たちによって唱えられたこともあった[17])の学者を招聘し、また、787年の勅令によって帝国内の全ての修道院に学校を併設させた頃に始まる。これらの学校(scola)はスコラ学派の名の由来となっており、また、中世の研究活動の中心地となった。

この時期の哲学的活動の中では、古代の著作を写すことが大きな比重を占めていた。アルクィンやその弟子たちの論議した内容を記録した一連の資料(いずれも同じ書き出しで始まっている資料の集まりなのでその書き出し『ウーシア・グラエケー Usia graece...』と言う名で言及される)の中のいくつかは完全に過去の作品の抄録・抜粋でしかない[18]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:102 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef