中上健次
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注釈^ 中上の異母の妹・弟については『中上健次電子全集21』収録「中上健次年譜 作製・高澤秀次」によると中上には異母妹が二人、異母弟が二人いるとされている。また「犯罪者宣言及びわが母系一族」というエッセイではこう記したことがある。「図を描いたほうがわかりやすいのだが、母は三つの姓名(木下・鈴木・中上)を名のったのである。僕の兄や姉たちは最初の木下勝三(病死)(注:勝三ママ)の血をつなぎ、末っ子の僕だけが鈴木留造の子であった。放蕩者でバクチ好きの鈴木は、他に二人の女をつくって妊ませ、結局、僕には母千里の産みだした郁平(ママ)、鈴枝、静代、君代の四人と、鈴木留造が女どもに産ませた一人の妹と二人の弟、そしてどこにいるのか生きているのか死んでいるのかわからない幻の妹が一人と、血のつながった兄姉妹でも九人いる計算になる。かくて幼い僕は母につれられて、最後の「父」である中上七郎の庇護をうけ、「父」の子である中上純一らと家庭を構成することになる。」[7]
^ 兄の自死について安堵したり、恥ずかしいと感じたりしたことが、罪障感となってトラウマになっている[14]。兄の自死についての子供の頃の感情について著作に以下のような記述がみられる。「その時も、酔って兄は義父の家へやって来た。」「「われらア、四人ともブチ殺したろか!」兄は口から怒りを一気に吐きだそうとしてどなった。」「兄のアルコール中毒の症状は自殺する三カ月ぐらい前から出ていた」「母はやっかいものの兄を精神病院へ入れるかどうか父に相談した、ぼくは早くほうりこんでしまえと思っていた。」「生臭い腐った肉のかたまり、きちがいめ、ぼくは兄を憎んだ」「昭和三十四年の三月の朝、姉の夫が「兄やんが首吊って死んどる」と息をきらせながら伝えてきた」「生きている人間が突然死ぬということをぼくは理解できなかったが、やっかいものの兄が暴れこんでこなくなったのだということだけはわかった、これでなにもかもすべてうまくいくと思い、安堵して柔らかく弛緩した感情が体の内部にひろがっていくのを感じとめた。」「なぜおまえはその時、安堵のような感情を抱いたのか?」「子供の時ぼくはせっかくうまくいっているこの家での父と母と父の子と母の子の四人の生活を、誰にも壊されたくないと思った、そして鉄斧や出刃包丁を持って、ぼくたち四人をほんとうに惨殺することもできないくせに「殺したる」と言って暴れに来る兄を憎悪した。それはほんとうなのだ、嘘いつわりのない十二歳の時のぼくの感情なのだ。」(以上『眠りの日々』)「何度モ小説ニ書イタ二十四歳デ自殺シタ兄カラ与エラレタ様々ナとらうまヲ私ハソノ時カラ今ニ至ッテモ解ケナイデイル。」「私ノ家デハ苦ノ種ダッタあるこーる中毒ノ兄ガスデニ首ヲククッテイルノデ何モ起コラナイ。母一人子一人、父一人子一人ノ四人家族デ平穏ニ暮ラシテイル。四人ノ誰モガ兄ノ死ガアッテソノ平穏ヲ維持デキテイルコトヲ知ッテイル」「ソノ頃ハ私モ私ノ母モ義父ノ戸籍ニ入ッテイズ私生児トシテ届ケラレテアッタ私ハ、木下トイウ兄ラノ姓氏ヲ名乗ッテイタガ、三月三日ニ自殺シタ木下郁平(注:ママ)ト木下健次ガ兄弟デアルコトヲ知ラレルカモシレナイ、知ラレタト思ッタノダッタ。(中略)兄ノ葬儀デ三日学校ヲ休ミ、出テ行クト先生ガ私ヲ呼ンデ、自殺シタト新聞ニ出テイタノハ君ノ親戚カ?ト訊イタ。私ハ違ウト首ヲ振ッタノダッタ。知ラン、トサエ言ッタ。」(以上『鴉』)[15][16]
^ 中上の作品には、この出来事は繰り返し登場する。『一番はじめの出来事』『眠りの日々』(初出時タイトル『火祭りの日に』)『補陀落』『岬』『楽土』『鴉』『奇蹟』などである。彼の文業を貫く重要な主題であった。
^ 出版社気付でサドを翻訳紹介していた澁澤龍彦にファンレターを送ったことがあるという[19]
^ 最初期の中上健次は大江健三郎のエピゴーネンであることはよく指摘される[20][21]。中上自身も「僕は昔 、大江さんの書き方にとても影響を受けた。あの人のすごい言語感覚が俺の言語感覚みたいのに反応して、それを使いたくてしようがなくなる」と述べている[22]
^ 「俺が喧嘩する相手は 、ほとんどこっちがやきもちを焼いている人間なんだよ 」[22]の言葉の通り、先行する優れた小説家、大江健三郎は作家として一人前になった中上の攻撃の対象となった。大江の海外文学理論を援用するブッキッシュな小説作法や、反核戦後民主主義擁護のような理想主義的な言動を批判的に見た[23][24]。もちろん同時に尊敬もあり雑誌「ダカーポ」で連載した文芸時評などにおいて大江の『人生の親戚』や『夢の師匠』の出来の素晴らしさに瞠目したことを語り[25][26]「他の人と横並びに読んでみると 、大江さんはダントツなんだよ」という賛辞を率直に述べたりもしている[22]。両者は一度、文芸誌『新潮』において主に海外の文学や理論を巡って意見を交わす直接対談をしている(「多様化する現代文学」『中上健次全発言II -1978?1980』所収)。晩年はフランクフルト日本ブックフェアのシンポジウム(1990)、共に選考委員を務めた三島賞の選考会など公的な場所で同席することも多かった。
^ 中上の母親のちさとは、幼い息子にせがまれて口承の昔話をした人だったが[29][30]、ひらがなとカタカナしか読めなかった。(中上は後年こう述べている。「おふくろなんか文盲だし、周りもみんな教育受けてないのと同じみたいなものです。じゃ何があるかというと、語りの世界ですよね、文字を読み書きするというよりは。おふくろはもともと婆さん子だったから、物語をどっさり知っていて、僕にも話して聞かせてくれる。そういう語りの言葉がいっぱいある。」)[31]近所にたまたま頭がおかしくなった本好きがいたことから、ちさと(千里)は、字を読んでいるとノイローゼになって果ては自殺にいたる、と思い込んでおり、中上が本を読んでいるとそれを奪い取った[18]。中上には医者の息子の裕福な親友がおり、読みたい書物や聴きたいクラシックのレコードをリストアップして買ってもらって、親友の部屋でそれらに触れた[32][33]
^ 文学に目覚めた中上は、新宮高校の文芸部の機関紙「車輪」に小説『赤い儀式』や詩を発表している。『赤い儀式』はエッセイ集『破壊せよ、とアイラーは言った』に収録された[34]
^ 中上の実家はこの頃には土建の仕事が成功して裕福になっており(中上自身の言によると「土方の親方の家ですから 。
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