最初の顧問団長は中国語に通じ、後にスターリングラード戦の英雄となったワシーリー・チュイコフ大将である。以後4年間、中国に入る重火器、大砲、航空機の供給はソ連からのみとなったほど、ソ連はライフルの生産しか行われていない中国にとっての最大の武器供給国であり続けた[4]。 中ソ不可侵条約の成立によって、イタリアの防共協定参加が決定的なものとなり、ムッソリーニ首相は日本の東洋平和のための自衛行動を是認するという論文を発表、ベルギー九カ国条約会議の会期中の1937年11月6日に日本国ドイツ国間に締結せられたる共産インターナショナルに対する協定へのイタリア国の参加に関する議定書に調印した[1][5]。
影響
脚注^ a b c 報知新聞 1937.12.19-1937.12.22(昭和12)事変下本年の回顧 (1)外交 (A?D)神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(147-057)
^ 臼井勝美『新版 日中戦争』p90-92
^ a b 大阪毎日新聞 1937.12.28(昭和12)一年を顧る (3)東亜篇 (上)神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(147-060)
^ ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著『マオ 誰も知らなかった毛沢東(上)』土屋京子訳、講談社、2005年、344頁
^ 条約本文
関連事項
中ソ友好同盟条約
日ソ中立条約
在華ソビエト軍事顧問団
ソ連空軍志願隊
日中戦争
南京戦
外部リンク
条約全文
⇒英語正文 (ZAOERV.DE)
『中ソ不可侵条約』 - コトバンク