両統迭立
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両統迭立の定着にともない、一方の皇統に専属的に仕える貴族が出現しはじめ、また治天の側も貴族たちにそれを求めた。朝廷の分裂が公家社会全体の分裂へと発展してゆくことになった一方、貴族たちの治天への従属は深まった。伏見天皇の頃より、非参議のまま二位・三位に叙される者、参議に任官された直後に辞退する者(参議への形式的任命)、参議から短期間で中納言に昇進する者(ただし、これは有能な人材抜擢の要素も持つ)が急激に増加するが、こうした叙位・任官の濫発は大覚寺統に対して劣勢であった持明院統が公家たちの自派への取り込みのために行ったと考えられるが、大覚寺統でもこれに対抗して同様の人事を行うようになっていった[2]。また、政務の交替とともに朝廷の高官・要職が一斉に入れ換えられ、一方の皇統の治天が下した訴訟の判決が他方の皇統の治天によって安易に覆されるなどの混乱も生じ、朝廷そのものの権威はかえって地盤沈下してゆくことになった。更にこの混乱は幕府へも思わぬ影響を及ぼした。治天が下した判決を執行するための警察力・軍事力を欠いていた朝廷では、六波羅探題にその執行を命じる勅命(違勅綸旨・違勅院宣)を送ってその検断権に基づく執行を命じたからである。この結果、敗訴した側は朝廷に逆らう「悪党」として討伐の対象となり、一方的に「悪党」と認定された側も激しく抵抗した。ところが、治天の交替によって判決がひっくり返されると、今度は対立していた側が同様の目に遭わされた。このため、訴訟当事者たちの朝廷に対する怒りが六波羅探題とその後ろにいる幕府にも向けられた。しかも、訴訟当事者の中に御家人がいた場合でも六波羅探題や幕府は勅命や院宣に逆らってまで彼らを保護することが出来なかった。このため、悪党の活発化や御家人の幕府への不信を招く結果となり、幕府の権威もまた傷つく結果となったのである。

両統迭立の方針に基づき、次の皇太子は持明院統から出すこととされた。13歳の後伏見にはまだ皇子がなく、伏見の第4皇子富仁親王(5歳)が皇太子となった。2つに分裂した王家がさらに分裂する可能性が生じ、伏見は持明院統の分裂を防止するため富仁を後伏見の猶子とする措置をとっている。大覚寺統では、すでに後二条には正安2年(1300年)に第1皇子邦良親王が生まれて将来の皇位継承が予定されていたにもかかわらず、亀山が乾元2年(1303年)に生まれた自分の皇子恒明親王を偏愛するあまり、邦良に代えて恒明を皇位につけることを後宇多と伏見に約束させて、さらなる皇統分裂の種を蒔いた。

嘉元2年(1304年)に後深草が62歳で死去、翌嘉元3年(1305年)には亀山が57歳で死去し、両統迭立は第2世代の時代に入った。それに先立つ正安4年(1302年)、伏見は2年前に死去した室町院より相続した持明院を新たな御所とした。一方、後宇多は徳治3年(1308年)になって大覚寺を再興して自らの御所とした。近藤成一の研究によれば、後深草・亀山両院の存命中はそれぞれ冷泉富小路殿と冷泉万里小路殿を拠点としており、「持明院統」「大覚寺統」の名称の由来となった持明院と大覚寺は自己の系統を新たな皇統として位置づけることに成功した伏見と後宇多という第2世代を象徴する殿舎であったと指摘している。

両統迭立の影響は芸能面にも見られるようになる。豊永聡美の研究によれば、後鳥羽天皇が愛好した影響により、鎌倉期よりそれまでの笛に代わって琵琶が天皇の教養として必須の楽器となっており、後深草もその例に倣って琵琶を習得していたのに対し、亀山は笛を重んじた。これは亀山が皇位継承者として浮上する以前から笛を習得していたことに加えて何らかの政治的判断も働いた可能性がある(後深草も亀山の了承を得た上で、持明院統の笛説を天皇家代々の藤井流から地下官人の大神氏に伝わる大神流に切り替えている)。実際には亀山も習得の開始は遅いながらも琵琶にも優れており、兄の後深草よりも先に秘曲を習得することが出来た(ただし、秘曲の伝授の時期は政治的な問題も絡んでおり、習得時期の前後と能力の優劣は無関係である)。以降、持明院統の天皇は琵琶を、大覚寺統の天皇は笛を、必須の楽器とした(なお、後年の持明院統(北朝)の分裂の際にも、後光厳天皇が兄である崇光天皇流(持明院統嫡流)に対抗する意図で琵琶から笙に切り替えている)。それでも、後深草・亀山の存命中は亀山が朗詠や蹴鞠を後伏見に伝授したり、管弦の会で両統の天皇や院が共演して演奏したりする交流の機会もあったが、両院の没後はそうした機会も減少していく。

後宇多もやはり政務に精励することで自己の皇統の正統性を補強しようと努力している。また、真言密教に傾倒して、徳治2年(1307年)には出家している(41歳)。これも個人的な信仰だけでなく、宗教的権威により皇統の正統性を強化する意図を含むものである。しかし、徳治3年(1308年)に後二条(24歳)が急死して皇太子富仁(12歳、花園天皇)が践祚し、伏見による院政が再開された。大覚寺統から皇太子が選ばれることになったが、後宇多天皇は、皇太子として嫡孫邦良(9歳)ではなく第2皇子尊治親王(21歳)を選んだ。邦良の幼少と病弱を考慮し、また恒明の立太子を要求する勢力を抑えるための措置だったが、結局これも問題をさらに複雑なものにした。なお、伏見も正和2年(1313年)に出家し、治天の政務を後伏見に譲っている。

両統迭立の定着により、両統とも時期を待てばいずれ政務を執ることができるようになると、今度は両統ともその時期をなるべく早めようとする。それは、具体的にはもっぱら鎌倉幕府へ特使を派遣して現任の天皇を譲位させるように請願するかたちで行われた。特にこのころ、伏見は第1次の院政期から引き続いて幕府から警戒されており、かつての亀山のように倒幕を考えているという噂も立つほどで、正和5年(1316年)には、伏見は幕府に告文を提出して潔白を訴えている。当然、治天・天皇の交替を求める大覚寺統からの圧力は増大した。反面、後宇多も異母弟である恒明の元服の時期が迫っており、持明院統が恒明と結んで皇位継承に関する取引を行う事態を恐れていた。対応に苦しんだ幕府は、文保元年(1317年)、次回の皇位継承については両統の協議により決定し、特使の派遣はやめるように指示した。協議の場で後宇多は花園が皇太子尊治に譲位すること、次の皇太子には邦良を立てることを求めた。伏見は花園の譲位は受け入れたが、皇太子には後伏見の第1皇子量仁親王(5歳)を立てることを求めた。協議はいったん決裂したが、同年伏見が53歳で死去すると両統の力関係は持明院統に不利となり、後宇多は再び花園の譲位を要求し、後伏見はこれを拒むことができず、翌文保2年(1318年)には尊治(31歳、後醍醐天皇)が践祚し、邦良(19歳)が皇太子となった。恒明(15歳)の元服を邦良の立太子後に引き伸ばすことにも成功した。交換条件として、後宇多は邦良の次の皇太子には量仁を立てることを後伏見に約束している。両統迭立は、すでに当然のこととして定着していた。後醍醐の践祚とともに後宇多の院政が再開されたが、後宇多は大覚寺門跡を創設して自ら門主となるなど密教への傾倒をさらに深め、また年齢とともに体調を崩してしだいに政務に倦み、元亨元年(1321年)には治天の政務を後醍醐に譲り、元亨4年(1324年)には58歳で死去した。両統迭立は第3世代の時代を迎える。
解消

後宇多は、あくまでも邦良を自分の正統な後継者と考えており、後醍醐の即位は邦良が成人するまでの“中継ぎ”でしかなかった。後宇多は、徳治3年、後二条の死去の8日後、愛息に先立たれた悲しみのなかでしたためた処分状のなかで次のように述べる。

  処分

(中略。大覚寺統の所領群を列挙し、その集積過程などを記す。)

右、寺院・御所・和漢文書等、一紙を残さず、中務卿尊治親王に譲与するところなり。後二条院長嫡として相承すべきのところ、不慮に崩御す。御悲嘆尽きるなし。去る秋仙院早世、この秋天子晏駕、眼前無常のこと、いかでか繋風を得ん。長く一事の俗塵を抛ち、いよいよ無為の真境に入らん。利生の方便にあらず。治世の要術は、口に世事を言うべからず、意に世事を憶うべからず。よって親王に処分するところなり。一期ののち、ことごとく邦良親王に譲与すべし。尊治親王子孫においては、賢明の器・済世の才あらば、しばらく親王として朝に仕え君を輔けよ。天下の謳歌、虞舜・夏禹のごとくんば、皇祖の冥鑒に任すべし。僭乱の私曲あるなかれ。後二条院の宮をもって実子のごとくすべし。ゆめゆめ保護せしめよ。ことに孝行を存じ、朕が志をなすべし。

  徳治三年閏八月三日                            御判 ? 『鎌倉遺文』23,369号「後宇多上皇譲状案」

つまり、後醍醐の子孫は皇位継承権を原則として有さないこと、後醍醐は邦良を自分の実子と思って待遇することなどが記され、そのことは関係者にも周知された。当時の持明院統の関係者が残したメモには、後醍醐の地位が「一代主」と表現されている。後醍醐は、天皇としての権威を十全に主張できない立場にあった。持明院統における花園も同様に“中継ぎ”の立場にあったが、伏見の意向で、花園は兄後伏見の猶子として持明院統の「嫡嗣」と呼ばれ、さらに後伏見の子の量仁が花園の猶子とされて、花園を持明院統の嫡流に組み込む、いわば“顔を立てる”配慮がなされていた。その温厚な人柄もあって、花園は自らの置かれた立場を従順に受け入れ、むしろ量仁の養育に力を注いだ。しかし、後醍醐は自らの立場に強い不満をいだき、激しく反発した。元亨元年に後宇多が後醍醐に治天の政務を譲ったのは、後醍醐の強要によるものではないかと推測する研究者(網野善彦、森茂暁)もいるほどである。

一方、処分状は、後醍醐の子孫から天皇や親王(法親王ではなく俗人の親王)を出すことをほんのわずかな可能性ではあるが許容しているが、それは、古代中国の伝説的な聖天子であると同等の帝王としての徳を後醍醐が備えている、と万民が認めたときに限られたものであり、ほとんど易姓革命と同じことであって、実現不可能な条件と言える。なお、この「可能性」を強調して、後宇多の意図を、天皇後醍醐・皇太子邦良の体制をできるかぎり長期化させ、量仁の立太子・践祚を遅延させることに求めようとする説(河内祥輔)もある。いわば、後二条流皇統をメインの皇統、後醍醐流皇統をサブの皇統として、大覚寺統の内部で皇位を独占し、将来的には持明院統を廃絶に追い込むことが意図されているというのである。しかし、仮にこの説に従うとして、後宇多のこのような意図の実現には、河内自身が認めているように、後醍醐と邦良の綿密な協調が不可欠であり、それは後宇多が親権者として両者のうえに君臨していなければ維持することは難しい。しかも、後宇多自身、後二条流皇統の維持に最大限の努力を払っていた。後宇多が院政を停止する直前の元亨元年2月に邦良が病に倒れると、3月19日に同母弟の邦省親王を内裏で元服させた。まもなく邦良は健康を回復したものの、この措置は、邦良の身に万一の事態があってその系統が断絶しても、それに代えて邦省を後二条流皇統の嫡流と定め、後醍醐流皇統に優先させる意図が後宇多にあったことを推測させる。後年になって、邦省はこのときに自分が後二条の「第二の皇胤」と位置づけられたと主張している。元亨4年6月に後宇多が死去すると、はたして後醍醐と邦良の関係はたちまち険悪となる。

自らの立場に納得できない後醍醐の感情は、政務を掌握してからのきわめて精力的な政策展開にも表現されている。これまで歴代の治天が進めてきた訴訟処理機構の整備や迅速な訴訟処理、有為な人材の登用などは当然であるが、後醍醐は、沽酒法(米価・酒価公定令)、洛中への地口銭賦課などの経済政策にも取り組み、さらには洛中酒鑪役賦課令、神人公事停止令、関所停止令などを発して、それまで治天の権限の及ばなかった領域へも積極的に手を伸ばして朝廷自体の権力基盤の拡大をも目指した。

しかし、このような新政策は、当然、既得権を侵害される貴族・大寺社の抵抗や全国統一政権としての性格を強めつつあった幕府の規制を受けて充分な成果を挙げることはできなかった。また、後醍醐は朝廷内部で孤立しており、手足となって働く人材が不足していた。後嵯峨の治世以来整備されてきた朝廷の訴訟処理機構で伝奏奉行などの役職に就き実務を担う家柄(名家の家柄)を確立させてきた貴族たちは、すでにいずれかの皇統に組織されてそれぞれ主従関係を結んでいた。持明院統に仕える貴族たちが後醍醐に協力しなかったのはもちろん、大覚寺統に仕える貴族たちも多くは「一代主」でしかない後醍醐よりも嫡流の邦良に仕えることを選んだ。後醍醐に仕えたのは、学問や芸能、信仰などを通じて後醍醐と個人的なつながりのあった者や、新たに名家の家柄への上昇を目指す低い家格の家系の出身者が中心だった。

「一代主」の立場を甘受することもできず、自らが理想とする政策を充分に実現することもできなかった後醍醐は、唯一の突破口として武力により既存の政治秩序を根こそぎ破壊する道を選ぶことになる。当時、相続に関して父母の遺言は絶対的な効力を持っており、幕府や朝廷の法廷でも容易にそれを覆すことはできなかったほどである。後宇多の定めた皇位継承プランを尋常の手段で変更することは難しかった。まして、両統迭立が幕府の方針として明確にされている以上、後醍醐の攻撃対象に幕府も含まれることになるのは必然的だったと言える。

後醍醐の第1次の武力倒幕計画が密告により発覚したのは、元亨4年9月のことだった。後宇多の死去が同年6月であるから、まるで父の死亡を待っていたかのようなタイミングである。この年は12月に正中と改元されたので、これを正中の変と呼ぶ。


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