都市博を中止した青島であったが、既に臨海副都心開発自体に莫大な費用が投入されていて後戻りができない状況であり[3]、「(臨海開発のため)何かイベントを開催する必要がある」といった発言をしている。
その後、世界都市博が中止になった臨海副都心をどのように開発するか論議が繰り返されるが、都市博中止による意外な効果もあった。都市博の中止が多くのマスコミで報道されたことで、逆に都民の臨海副都心の認知度は大いに高まった。噂の臨海副都心はどんな所なのかという関心から、開業したゆりかもめは、まだ荒涼とした埋立地だけの状態だったにもかかわらず、満員の乗客を運んだ。
都市博が中止されたものの民間主導による開発そのものは継続され、1996年には有明地区に東京国際展示場(東京ビッグサイト)、1997年(平成9年)には台場地区にFCGビル(フジテレビジョン・ニッポン放送本社)、1999年(平成11年)には青海地区にパレットタウンやヴィーナスフォートなどの施設が相次いで開業し、商業施設やコンベンション・センター、ホテルが充実したことでさらに多くの観光客が訪れるようになり、ゆりかもめや1996年(平成8年)に開業したりんかい線は1両あたりの乗車数や編成数を増やした車両を投入しているが、休日に大型イベントが発生するとさばききれず、乗り切れない乗客や駅の入場制限が発生するほど盛況となっている(ただし、パレットタウンとヴィーナスフォートの土地に関しては東京都による事業用借地権の暫定利用としての貸し出しであり、紆余曲折を経て森ビル・トヨタ自動車へ土地が売却され、両施設の閉鎖及び再開発が決定した。詳細はパレットタウンに詳しい)。
結果、青島の後に知事に就任した石原慎太郎の方針転換もあり臨海副都心は当初予定したオフィス街ではなく、アーバンリゾートの性格を持つに至っている。 1995年から発売されていた一般向け前売入場券については、同年8月1日から12月28日までの期間、日本全国の主要旅行代理店(近畿日本ツーリスト、JTBなど)やJR東日本のびゅうプラザなどで払い戻しが行われた[1]。中止決定の時期は、第1期分の約264万枚が売れ、第2期分を発売している最中だった(後に第3期分も発売される予定だった)[7]。 入場券の価格は大人一枚、第1期分(1995年2月まで)が2,500円、第2期分(1995年3月?8月(予定))が2,700円。なお、第3期分(1995年9月?1996年2月)は2,900円、当日券は3,200円を予定していた[7]。 1995年(平成7年)青島は、すでに都市博へ参加要請を行っていた当時のガーリ国連事務総長に対して、都市博の中止説明をおこなった。同年7月にはプロデューサーの解嘱を、10月には会場借り受け用地の返還と総合プロデューサー事務所を閉鎖し[1]、最終的に、主催者である東京フロンティア協会は1996年(平成8年)3月31日をもって解散することとなった[1]。 東京フロンティア協会の事務総長であった野村ユ市は、記録編纂[1]の結びにお詫びと御礼を述べたうえで、『新しい「都市づくり」の運動の試みであったこと、博覧会主催者の責務として開催に向け努力した関係者に対して経緯を報告するための書であり、後世に伝える歴史的資料でもある』と綴った[1]。 開催が予定されていた当時はバブル崩壊が進行しつつあり、仮に博覧会を実施した場合、どの程度経済的な効果があったかどうかは不明である。当時すでに第一次公募企業の進出中止や延期が相次いでおり、3年前の1993年に東京多摩地域で開催されたTAMAらいふ21でも、企業の協賛が思うように得られない状況で観客数も伸び悩んでいた。またバブル崩壊前ではあるものの、1988年に札幌市で開催された世界・食の祭典の失敗例の記憶も新しく、行政主体の大型イベントの限界が指摘され始め、「東京ディズニーランドの年間入場者数が1000万人程度なら都市博が半年強で2000万人は無理」とまで言われていた。 先述のとおり、都市博を中止した当の青島が臨海開発のためのイベント開催の必要性に言及したこともあり、世界都市博中止は失敗だったのではないか、と批判された。青島が実施反対としていた三つの公約のうち、臨海副都心開発と二信組救済はその後も進められ、青島在任中に実現されたのは博覧会中止のみであった。 都市博は東京テレポートタウンを中心とした東京臨海副都心全体で催される予定であったが、それは以下の4つの特設会場で展開されることになっていた[2]。 出展企業・省庁の名称は当時のもの。 出展企業・グループには主催者側から、1社・グループあたり前売入場券10万?15万枚の購入依頼があった。 このほか主催者はゼネコンの業界団体である日本建設業団体連合会にも出展を要請していたが、用意された敷地が他の企業用区画の5倍あり、出展費用が過大となることから、日建連は出展を断念した[8]。 会場予定地だった場所は、相次いで分譲され、日本科学未来館、フジテレビ湾岸スタジオ、ヴィーナスフォート、ダイバーシティ東京などが相次いで建てられた。
前売入場券の払い戻し
関係各所への対応
中止の妥当性
予定されていた世界都市博覧会の姿
インターシティランド:「企業パビリオン」をはじめとした都市の基盤となる豊かな環境、優れた技術、新たな都市文化を体感できるエリア。現在のダイバーシティ東京からテレコムセンタービルまで続くプロムナード一帯が予定エリアだった。
メディアランド:「アートシティ」や「フロンティアホール」など、文化・芸術をエリア。現在のヴィーナスフォートや東京ビッグサイト青海展示棟あたりが予定エリアだった。
コミュニティランド:「水の広場」「市民の広場」などが展示される予定だった。夢の大橋や武蔵野大学有明キャンパス、TFTビルのあたりが予定エリアだった。
国際展示場:「テーマ館」として、東京メトロポリスプラザや環境プラザが展示される予定だった。
予定されていたパビリオン
テーマ館(東京都)
海外都市館(財団法人東京フロンティア協会)
日本の都市館
NTTマルチメディア館(NTTグループ)
三金会ハートピア・アトランティスロマン(三金会)
コカ・コーラ「フリーダムワールド」(東京コカ・コーラボトリング)
日立グループ館(日立グループ)
東京ガスパビリオン(東京ガス)
松下パビリオン(松下グループ)
三菱未来館(三菱グループ)
三井・東芝・ダビンチ館(三井グループ・東芝グループ)
芙蓉グループパビリオン(芙蓉グループ)
住友館(住友グループ)
テプコ・エナジーオデッセイ(東京電力)
三和みどり館(三和みどり会)
未利用エネルギー館(通商産業省・資源エネルギー庁)
情報未来館(郵政省ほか)
建設パビリオン(建設省)
JA東京館(農林水産省・JA全農ほか)
会場予定地のその後
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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