世界遺産
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たとえば、ギザの三大ピラミッド[注釈 41](1979年)、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』[注釈 42](1980年)、グレート・バリア・リーフ(1981年)、タージ・マハル(1983年)などが初期に登録されている。世界遺産委員会の議長を2度務めたことがあるクリスティーナ・キャメロン(英語版)は、初期の分かりやすい世界遺産を「偶像的な遺産」と呼んだ[344]。しかし、そうした遺産の登録が進んでいくと、「顕著な普遍的価値」を認めにくい物件や価値を裏支えするストーリーを理解しづらい物件が増えているとも言われる[345]

世界遺産の勧告や審議が厳格化する傾向にあるとしばしば言われるが[346][347]、「登録のされにくさ」は審議の厳格化に由来する可能性だけでなく、上記のような質的な変化に由来する可能性も指摘されている[348][349]。また、日本の世界遺産登録物件の審議も2010年代になると厳しい勧告が増えていると言われるが[136]、世界遺産条約参加当初の物件の時点で、日本が推薦理由としていた評価基準がしばしば退けられたことを理由に、昔から十分に厳しかったという指摘もある[350]
危機遺産登録への抵抗危機遺産リストを効果的に活用したロス・カティオス国立公園

危機遺産リストは、世界遺産の本来の意義からするならば、中核的機能を担うべきリストであるが、十分に機能していないという指摘がある[351]。もちろん、危機遺産リストに登録された場合に得られる国際的支援などを期待し、保有国自身が進んで危機遺産登録を申請する事例や、諮問機関からの勧告を保有国が受け入れて、異論なく危機遺産登録が実現する事例もある。前者の例としては、開発の進行を食い止めるために国際世論の後ろ盾を求めたロス・カティオス国立公園(コロンビア)がある[352]。この例では、危機遺産リスト登録を契機として、地元住民ら関係者がまとまっただけでなく、隣国パナマとの関係強化[注釈 43]にも結びつき、持ち上がっていた開発計画も撤回されたことで、無事に危機遺産リストから除外された(第39回世界遺産委員会[353]。この例は、危機遺産の効果的活用例のひとつと認識されている[353]。後者の例としては、諮問機関の勧告を受け入れて、世界遺産になると同時に危機遺産リストにも登録されたナンマトル:東ミクロネシアの祭祀センター(ミクロネシア連邦)[354]がある。この例では、世界遺産委員会の席上、危機遺産リスト入りを前向きに受け止める保有国の姿勢への称賛が寄せられた[355][356]

その一方で、保有国が強く反対する事態がしばしば起こるのも事実である。たとえば、パナマ・ビエホとパナマ歴史地区は、歴史地区を囲む海上道路の建設に対し、世界遺産リストからの除去すらも視野に入れて、第36回世界遺産委員会で危機遺産リスト登録が勧告された[357]。しかし、保有国が委員国に強く働きかけて回ったことで、危機遺産リスト入りが回避された[357]。工事が撤回困難な状況まで進む中、翌年の委員会でも危機遺産リスト入りが勧告されていたが、保有国は登録範囲を見直すことを約束して回避する一方[138]、約束が果たされない場合には世界遺産リストからの抹消が検討される旨を記載した決議には同意し、登録抹消のリスクを負ってでも危機遺産リスト入りを回避する姿勢を鮮明にした[81]2015年の地震で被災したカトマンズのダルバール広場

カトマンズの渓谷(ネパール)は2003年から2007年に危機遺産に登録されていたが、これも保有国が強く反対した例のひとつである[358][359]。都市化を理由として、1992年には危機遺産入りの可能性が取り沙汰されていたが、ネパール当局が強く反対したため、危機遺産リストには加えず、世界遺産委員会、世界遺産センターが協力しつつ事態の改善に努めていた[360]。しかし限界があったため、2003年に危機遺産リストに登録され、一応の改善が果たされたことから2007年に除去された[361]。とはいえ、それでもなお課題の抜本的解決にはならなかったと認識されていた[359]。そして、同遺産は2015年のネパール地震で被災した際に再び危機遺産リスト入りを提案された。この地震で、カトマンズの渓谷は深刻な被害を受け、王宮も含めて全半壊した建物も少なくなかったため、国際的な支援が必要な状況と認識されたのである[362]。しかし、ネパール当局はまたも危機遺産リスト登録には反対し、1年の猶予を申し出て、正式に認められた[363]。1年後の第40回世界遺産委員会でも諮問機関は危機遺産リスト登録を勧告する状況だったが、ネパール当局はさらに1年の猶予を申し出て、これも認められた[364]。そして第41回世界遺産委員会では、震災復興の中での再建にOUVを損なうものがあるという諮問機関の指摘もあったが、猶予を求めるネパールの申請がまたも認められた[365]

本来、危機遺産登録には保有国自身の同意は必要ではないとされているが、保有国の意向を無視して強硬に登録することは、世界遺産委員会では普通行われない[351]。かわりに、危機遺産登録の意義を説き、罰などではないことを強調しているが、「世界遺産」ブランドの国際的知名度の向上などを背景として、抵抗感を持つ国々の意識を変革するのは、容易なことではないと見られている[81][366]。このような抵抗から、本来ならば危機遺産登録されるべき「隠れた危機遺産」が、今後も増加していくことを懸念する意見もある[367]
都市の開発世界遺産リストからの抹消も議論されたケルン大聖堂

世界遺産の登録は、景観や環境の保全が義務づけられるため、周辺の開発との間で摩擦が生じることがある。特に、都市内の歴史地区や建造物については、その周囲に建てられた新しい高層建築などによって、景観が損なわれることで議論が起こることがある。たとえば、ケルン大聖堂(ドイツ)は登録時点で緩衝地帯設定が条件となっていたにもかかわらず、それが果たされなかった[368][369]。その中で近隣の高層建築計画が持ち上がったことから2004年に危機遺産リストに加えられ、一時は世界遺産リストからの除去すら検討された[369]。この事例が注目された理由は、開発による景観の損壊が危機遺産登録理由になった、最初の事例だったからである[370]。この事例では、建設推進派と反対派でケルンを二分する議論になったが、緩衝地帯設定や高さ規制が導入されたため、2006年に危機遺産リストから除かれた[369]。しかし、ケルンの議論は、今後同種の問題があちこちの歴史都市で起こりうることを危惧させるものだった[371]

実際、それ以降も、規制や計画修正などの対応がとられた事例には、エスファハーンのイマーム広場(イラン)、ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(ドイツ)、フェルテ/ノイジードル湖の文化的景観(ハンガリー/オーストリア)[372]などがあり、ほかにも第32回世界遺産委員会ではサンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群(ロシア)やシェーンブルン宮殿と庭園群 (オーストリア)[259]、第41回世界遺産委員会ではシャフリサブス歴史地区(ウズベキスタン)や海商都市リヴァプール(イギリス)[373]などでも開発が問題となった。


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