世界遺産
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

この委員会で採択されたのが、世界遺産登録の基準なども含む「世界遺産条約履行のための作業指針」[27](以下「作業指針」と略記)であり、この「作業指針」はその後も改定を重ねることとなる[28][注釈 5]

そして、1978年第2回世界遺産委員会で、エクアドルガラパゴス諸島西ドイツアーヘン大聖堂など12件(自然遺産4、文化遺産8)が、最初の世界遺産リスト登録を果たした(いわゆる「世界遺産第1号」[29])。翌年の第3回世界遺産委員会では、世界遺産制度のきっかけとなったヌビア遺跡なども含む45件が登録され、一気に5件ずつ登録したエジプトとフランスが保有国数1位となった[30]。この第3回世界遺産委員会は、最初の複合遺産ティカル国立公園)が誕生した会合であるとともに[31]、直近の大地震で大きな被害を受けたコトルの自然と文化歴史地域ユーゴスラビア社会主義連邦共和国[注釈 6])が最初の危機遺産リスト記載物件になった会合でもある[32]。その後は、1980年の第4回世界遺産委員会におけるワルシャワ歴史地区登録(後述)など、議論になる案件もあったものの、締約国、登録件数とも増加していった。
登録対象の拡大「平成の修理」中に屋根瓦を剥がされた姫路城。解体修理をともなう日本の文化財保存のあり方が、世界遺産概念に一石を投じた。

世界遺産に関する業務の増大を踏まえ、1992年には、世界遺産の事務局にあたる世界遺産センターがユネスコ本部内に設置された[33]。当初はユネスコの文化遺産部との棲み分けが十分になされていなかったが、のちに世界遺産センターは有形の文化遺産を、ユネスコ文化遺産部はおもに無形の文化遺産を担当する形で業務分担された[34]

1992年は「作業指針」に文化的景観の概念が導入された年でもある。詳しくは後述するが、この概念は、より多様な文化遺産に世界遺産登録への道を開くものであり、登録件数の多い欧米と、それ以外の地域との間の、不均衡の是正にも寄与することが期待された[35][36]

1992年は日本が世界遺産条約を批准した年でもあり、先進国では最後にあたる125番目の締約国となった[37][38](同年の6月30日に受諾書を寄託、9月30日に発効[39][注釈 7]。日本の参加が他国と比べて遅れた理由は、いくつか指摘されている。たとえば、文化財保護法などの独自の保護関連法制が整っていて必要性が認識されづらかったこと[40]、参加した場合の煩瑣な行政手続きや国内法の修正作業への懸念があったこと[41]、重要性に対する認識が希薄な中で国会審議の優先順位が高くなかったこと[42]冷戦下でアメリカを刺激したくなかったこと[注釈 8]世界遺産基金の分担金拠出に関する議論が決着しなかったこと[37][43]、省庁の縦割り行政の弊害があったこと[44]などが挙げられている。

国内では紆余曲折あった日本の参加だが、参加してすぐに重要な議論を本格化させることになる。それは「木の文化をどう評価するか」ということである。日本の世界遺産のうち、最初の文化遺産は姫路城法隆寺地域の仏教建造物である(いずれも1993年登録)。これらはいずれも解体修理の手法で現代に伝えられてきた建造物であり、基本的にそのような修理を必要としない「石の文化」の評価基準になじまない側面があったために議論となり、それが「真正性に関する奈良文書(英語版)」[注釈 9]の成立につながった[45]後述参照)。これは、アジアやアフリカに多い木、日干し煉瓦、泥の建築物など、多様な世界遺産を増やすことにつながり、世界遺産の歴史の中で重要な意義を持った[46]
抹消される事例の出現1,000件目となったオカバンゴ・デルタ

世界遺産は毎年その件数が増えていく中で、上限に関する議論なども見られ始める(後述)。その一方で、登録物件から「顕著な普遍的価値」が失われた場合などには、その物件は世界遺産リストから抹消される規定が存在していたが[47]、そのような事例は長らく存在していなかった。しかし、2007年の第31回世界遺産委員会アラビアオリックスの保護区が初めて抹消され、続いて2009年の第33回世界遺産委員会ではドレスデン・エルベ渓谷が、さらに2021年の第44回世界遺産委員会海商都市リヴァプールが抹消された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:423 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef