世界遺産
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しかし、フランス文化大臣アンドレ・マルローの名演説などもあって、50か国から、総事業費の半額に当たる約4,000万ドルの募金が集まり、日本からも28万ドルが寄せられた(日本政府が1万ドル、朝日新聞社が27万ドル[注釈 3][14])。成功裏に終わったこのキャンペーンは[注釈 4]、その後も続く国際キャンペーンの嚆矢となり、続いて北イタリアの水害を受けてフィレンツェヴェネツィアの文化財を保護するためのキャンペーンが1966年に行われた[15]。そして、同じ年のユネスコ総会では、世界的価値を持つ文化遺産を保護するための枠組み作りを始めることが決議され、これが世界遺産条約につながる土台のひとつとなった[16]。これが「普遍的価値を有する記念工作物、建造物群及び遺跡の国際的保護のための条約」と称された案で、1970年のユネスコ総会にて、次回の総会(総会は2年に1回開催)で提出されることが決まった[17]。なお、この案では、国際的な援助が要請される遺産のリストのみが想定されていた。それに対応するのは現在の世界遺産リスト全体ではなく「危機にさらされている世界遺産リスト」のみといえる[18]

他方、1948年設立の国際自然保護連合(IUCN)でもアメリカ合衆国が主導する形で、主として自然遺産保護のための条約作りが進められていた[19]。アメリカではホワイトハウス国際協力協議会自然資源委員会が1965年に「世界遺産トラスト」を提唱し、優れた自然を護る国際的な枠組みが模索されており、その具体化作業がIUCNを通じて行われていたのである[20][21]。アメリカはイエローストーン国立公園設立(1872年)によって世界で最初に国立公園制度を確立した国であり、大統領リチャード・ニクソンは「環境に関する教書」(1971年)において、国立公園誕生100周年(1972年)を期して、世界遺産トラストを具体化することの意義を説いた[17]。そうしてできたのが、「普遍的価値を有する自然地域と文化的場所の保存と保護のための世界遺産トラスト条約」と称された案で、こちらの案に盛り込まれた「世界遺産登録簿」案が現在の世界遺産リストにつながった[18]
世界遺産の成立世界初の国立公園イエローストーンも、「世界遺産第1号」のひとつ

上述の2つの流れは、国際連合人間環境会議(1972年)に先立つ政府間専門会議でのユネスコ事務局長ルネ・マウ(英語版)の提案もあり、一本化されることで合意された[22]。その結果、同年11月16日、パリで開催された第17回ユネスコ総会(議長萩原徹)にて、一本化された「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)が採択された[23]。翌年アメリカ合衆国が最初に批准し[23]、1975年9月17日に締約国が20か国に達した[24]。これによって発効の要件を満たしたため、3か月後の12月17日に正式に発効した[24]

1976年11月には第1回世界遺産条約締約国会議が開かれた。締約国会議はユネスコ総会に合わせる形で(つまり2年に1回)開催され、世界遺産委員会の委員国選出や世界遺産基金への各国の分担金額の決定が行われる[25]。その第1回会議で最初の世界遺産委員会の委員国が選出され、翌年には第1回世界遺産委員会が開催された[26]。この委員会で採択されたのが、世界遺産登録の基準なども含む「世界遺産条約履行のための作業指針」[27](以下「作業指針」と略記)であり、この「作業指針」はその後も改定を重ねることとなる[28][注釈 5]

そして、1978年第2回世界遺産委員会で、エクアドルガラパゴス諸島西ドイツアーヘン大聖堂など12件(自然遺産4、文化遺産8)が、最初の世界遺産リスト登録を果たした(いわゆる「世界遺産第1号」[29])。翌年の第3回世界遺産委員会では、世界遺産制度のきっかけとなったヌビア遺跡なども含む45件が登録され、一気に5件ずつ登録したエジプトとフランスが保有国数1位となった[30]。この第3回世界遺産委員会は、最初の複合遺産ティカル国立公園)が誕生した会合であるとともに[31]、直近の大地震で大きな被害を受けたコトルの自然と文化歴史地域ユーゴスラビア社会主義連邦共和国[注釈 6])が最初の危機遺産リスト記載物件になった会合でもある[32]。その後は、1980年の第4回世界遺産委員会におけるワルシャワ歴史地区登録(後述)など、議論になる案件もあったものの、締約国、登録件数とも増加していった。
登録対象の拡大「平成の修理」中に屋根瓦を剥がされた姫路城。解体修理をともなう日本の文化財保存のあり方が、世界遺産概念に一石を投じた。

世界遺産に関する業務の増大を踏まえ、1992年には、世界遺産の事務局にあたる世界遺産センターがユネスコ本部内に設置された[33]。当初はユネスコの文化遺産部との棲み分けが十分になされていなかったが、のちに世界遺産センターは有形の文化遺産を、ユネスコ文化遺産部はおもに無形の文化遺産を担当する形で業務分担された[34]

1992年は「作業指針」に文化的景観の概念が導入された年でもある。詳しくは後述するが、この概念は、より多様な文化遺産に世界遺産登録への道を開くものであり、登録件数の多い欧米と、それ以外の地域との間の、不均衡の是正にも寄与することが期待された[35][36]

1992年は日本が世界遺産条約を批准した年でもあり、先進国では最後にあたる125番目の締約国となった[37][38](同年の6月30日に受諾書を寄託、9月30日に発効[39][注釈 7]。日本の参加が他国と比べて遅れた理由は、いくつか指摘されている。たとえば、文化財保護法などの独自の保護関連法制が整っていて必要性が認識されづらかったこと[40]、参加した場合の煩瑣な行政手続きや国内法の修正作業への懸念があったこと[41]、重要性に対する認識が希薄な中で国会審議の優先順位が高くなかったこと[42]冷戦下でアメリカを刺激したくなかったこと[注釈 8]世界遺産基金の分担金拠出に関する議論が決着しなかったこと[37][43]、省庁の縦割り行政の弊害があったこと[44]などが挙げられている。

国内では紆余曲折あった日本の参加だが、参加してすぐに重要な議論を本格化させることになる。それは「木の文化をどう評価するか」ということである。日本の世界遺産のうち、最初の文化遺産は姫路城法隆寺地域の仏教建造物である(いずれも1993年登録)。


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