世界観
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この世界の意味は何か?

世界はどのように始まり、どこへ行くのか?

人間に定め・運命はあるのか? 人間に自由はあるのか?

世界の本性や本質とは何で、それはどんな意味があるのか?

自然とは?超自然とは?

世間とは何か?

自分とは何なのか?

死後どうなるか?

人は世界から恵みをいただいているのか? それとも「労働」しているのか?

人と人はどうして争う?戦争とは何か?

善とは何か?

[要出典]世界観は、その現実をみることから導きだされる認識論を含む。世界観の批判はもう一つの世界観によって行われる。したがって近代以降、哲学的な物事の理解には必然的に世界観が伴うとされ、現代においても哲学論争が主に世界観の対立という形でおこなわれている。
哲学的世界観の成立過程

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世界観は人間と絶対的他者である自然、社会を媒介するものである。また、自然、社会に対するあらゆる価値判断は大なり小なり特定の世界観を背景にしている。以下このような世界観が哲学的に成立していく過程を記述する。

「個人を世界に投げ出されたアトム[要曖昧さ回避]的存在とみるならば、世界は個人にとって絶対的他者である[要出典]。個人とおなじくアトム的存在である別の個人との関係性でさえ、世界と同じ絶対の他者的関係性をもつ。この意味でわれわれは常に他者との関係性という限りにおいて世界を評価することになる[要出典]。世界が絶対的他者であるならば、われわれにとって世界との完全な同一化は不可能である。これは世界の理解に一定の限界を認めることであり、不可知論を伴う。世界観とはこのような不可知論的立場で最終的には解決されえない個人と世界との自他性を解決するために措定された、人間の意識レベルにおいての世界の何らかの投影像である[要出典]。世界観がしばしば擬人化を含んでいることもこのためである。」

世界観は個人にとって他者である世界の属性を持っているが、客観的存在としての世界とは異質であり、その意味において個人内に存在している。絶対的他者である世界の側から見れば、個人に従属している観念である。客観的存在である世界は普遍的に存在すると考えられるのに、世界観をめぐって論争や対立がおこるのはこのためである。
近代哲学における世界観の成立

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次に近代哲学史における歴史的な経緯について述べる。

18世紀に全盛を迎えた啓蒙主義は理性によって、万人が公平に認める世界の根本的な原理を考えることが可能であるとした。この考え方は、なにか絶対的な真理(たとえば宗教)によりかからずにわれわれ自身が自立して思考することができるということを保証した。啓蒙主義自然科学的な成果に基づいたものであり、社会科学や哲学の分野でもこのような根本原理を理性によって明らかにすることは有意義であるとされた。このような理性万能主義の立場にたてば、理性そのものは普遍で不変であり万人に共通であるから誤りようがなく、われわれが何かについて異なる見解を持っているとすれば、それは認識の違いによるものであるという結論にゆきつく。啓蒙主義の主流がイギリス経験論であり、根本的に認識論の立場が重要視されたのも以上の理由による[要出典]。

しかし、イギリス経験論はこの認識論を深めていった結果、観察者である個人が絶対的他者である世界をありのままに認識することが不可能であるということを認めざるを得なくなった。無限的存在である世界に対して個人はつねに有限的であるから、理性がたとえ無限の可能性を持っていたとしても、個人が有限である以上理性はある段階で時間的空間的に世界とは切り離されてしまうのである。常識的に言えば、われわれは江戸時代に生きることはできないし、いま日本にいるわれわれが同時にアメリカに存在することはできない。この限りにおいて個人と世界の間には永遠なる断絶が存在するのである。

[要出典]啓蒙主義以前であればこのような問題は世界に対して絶対的な真理を主張する宗教によりかかることによって解決可能であったかもしれない。だが啓蒙主義はすでに宗教を科学の世界から追放してしまったのである。近代哲学がこの宗教に代わる代弁者としてもってきたのが世界観であったといえる。このような世界観は近代哲学に理性以上にラディカルな姿勢をもちこむ一方、世界観の対立という厄介な問題をもたらした。近代哲学は問題の所在を世界観に大きく依存してしまったために、世界観の対立がしばしば哲学の本質問題とされている。この意味で啓蒙主義における理性のような普遍的な価値を、近代以降の哲学は失ってしまったと考えられる。
哲学的世界観の諸相

ここでは代表的な世界観を適宜分類しながら概観し、その特質を明らかにする。
原理の性格による分類

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唯物論

唯物論とは世界の根本的な原理は何らかの物質的性格を持つとする考え方。
弁証法的唯物論
それまでの唯物論が機械論的であったのとは対照的に弁証法的、そしてヘーゲルらの弁証法が観念論的であったのに対して唯物論的であるのがその特徴。1840年代マルクスエンゲルスが提唱、レーニンらが発展。物質的存在を世界の根本原理とし、その優位性を説く考え方。
機械論的唯物論
形而上学的思考方法をとる非弁証法的な唯物論。弁証法的唯物論に相対する。ラ・メトリーの『人間機械論』が有名。ドルバックなどもこれに含まれる。
観念論(唯心論)

世界の根本的な原理は何らかの精神的性格を持つとする考え方。唯心論はしばしば観念論と同義とされるが、観念論は狭義においては独我論をさすこともある。
狭義の観念論(⇔実念論)
外界を一切否定し、純粋な観念そのものを根本原理とする考え方。独我論。バークリーシュテルナーなどがこの立場に分類される。
素朴実在論
外界は意識から独立に存在しており、なおかつ感覚知覚を通して意識的に知覚される現象は即ち外界であり、それは実在(現実)の忠実な模写、反映であると見做す立場。
現象論 (phenomenalism)
物自体の認識を断念し、感覚知覚を通して体験された現象のみで満足するか、あるいは現象の背後(にあるであろう)物自体の存在を否定し、意識に与えられた事象(即ちここでは現象)のみに実在と認める立場。無論一元的。唯現象論。
先験論 (transcendentalism)
カントや、新カント派の批判主義哲学をこう呼ぶ。あらゆる感覚に先立つ根本原理を精神の側に存在すると主張する立場。また超感覚的認識を主張するエマーソンヘーゲルもこれに含まれる。超越論。先験主義。
ダイナミズム的一元論
モナド論 (monadology)
物質原理と精神原理を統合した一つの原理としてモナドを主張する。ライプニッツが主張した。
原子論 (atomism)
哲学的原子論は何らかのアトム的粒子を想定し、その離合集散によってあらゆる世界的事象が表現されるとした。デモクリトスなどが有名。
その他のダイナミズム (dynamism)
そのほかにも、世界の根本原理は可能力やある種の運動法則にあるとし、これが物質、運動、存在など全てを統括する唯一の原理であるという考え方は古来珍しいものではない。アリストテレスがとくに有名。


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