世界大恐慌
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閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止した[30][28]。家を失い木切れで作った掘っ立て集落は恨みを込めて「フーバー村」と呼ばれ、路上生活者のかぶる新聞は「フーバー毛布」と言われた[31]。景気が底を打って、クローズド・エンド型もとい財閥の投信会社は、電力・ガス事業から資本を引揚げ、その保有銘柄を一般産業に分散し、結果として保有銘柄数を増やした[15]
住宅所有者貸付公社

連邦準備制度の成立から、中央準備市銀行のバンカーズ・バランスは対預金総額比を下げ続けていたが、横ばいとなる1920年代でも3割を維持した。1920年代に不動産抵当貸付を積極的に行った地方銀行と準備市銀行は、1933年2月取り付けに応じるためニューヨークのコルレス銀行から銀行間預金を大量に引き出した。ニューヨーク市銀行は一般の預金者による預金払い戻しに加えて、銀行間の引き出しも被ったのである。この金融システムに沿って、不動産抵当貸付を焦げつかせた銀行からニューヨークへ倒産が連鎖した。貯蓄貸付組合が保有する資産は流動性が低かったので、組合は商業銀行からのコールマネーで補っていた。1929年後半と1930年代初め、商業銀行は組合への短資供与を断るようになった。むしろ組合から貸しはがそうとした。組合はどんどん倒産した。相互貯蓄銀行は銀行間預金をあてにしなかったので小規模な倒産にとどまった。連邦住宅貸付銀行が設立されても不動産市場の崩壊は止まらなかった。そこで住宅所有者貸付公社 (Home Owners' Loan Corporation) が創設された。寛大にも、公社は自社債を焦げついたモーゲージと交換した。もっとも債務者にとっては依然として毎期の利払が減らない方式であった。まさにこのころが非農地不動産抵当流れのピークであった[32]
各地のスタンプ貨幣

1932年10月、ハワーデン (Hawarden, Iowa) が代用通貨を発行した。これは取引するたび3セントの印紙を貼るスタンプ貨幣であった。モデルとなった本来の自由貨幣は周期的なスタンピングで減価し流通を促進するものであった。しかしハワーデンの代用貨幣は長く保有しても減価しないので消費させる仕組みを欠いていた。それでもアメリカで発行されたスタンプ貨幣は、使うときまで減価しないハワーデン方式を踏襲することが多かった。実施は短期間であったが、無担保貨幣でも信用次第で流通することを証明した。本来の自由貨幣はロングアイランドのフリーポート (Freeport, New York) で失業対策委員会が3種類の通貨単位で5万ドル分を発行した。元来の自由貨幣を導入することはカンザス・アイオワの州議会でも検討され、法律も整備された[33]

1933年2月18日、アラバマ出身のバンクヘッド上院議員 (John H. Bankhead II) は、緊急のとき連邦政府も代用通貨の発行を認める法案を提出した。4日後インディアナ州の下院議員ピーテンヒル (Petenhill) も提出した。これらは実施されることがなかった。自由貨幣で年金基金を再建する計画もあったが (Ham and Eggs Movement)、州議会で否決された。本来の自由貨幣、支払うときだけスタンプが押される貨幣およびその他をふくむ緊急通貨を、アーヴィング・フィッシャーが理論的に支えていた。彼がディーン・アチソンに緊急通貨を後押しするよう打診した。しかしアチソンは地方分権につながることを危惧し、後述のルーズベルト大統領と協議した。1933年3月4日、ルーズベルトは緊急通貨を禁止した[33]
ニューディール政策ニューディール政策によりアメリカの経済は一時的ではあるが回復傾向に転じた。写真は活気が戻りつつある1935年のニューヨーク

民主党フランクリン・ルーズヴェルトは、現職大統領フーヴァーの財政政策を批判し、ニューディール政策と称する財政拡大政策を主張して1932年の選挙に当選し大統領となった。大統領就任後直ちにルーズベルトは公約を翻し、修正資本主義に基づき、テネシー川流域開発公社を設立、さらに農業調整法全国産業復興法を制定した。この今日的意味のニューディール政策はその後労使双方の反発があり、規模が縮小されるなどした。それでも記録的なものとなり、フーバー政権の1930会計年度の歳出予算は対GDP比3.4%程度だったが、1934年にルーズベルト政権は10.7%まで引き上げた[34][35]

農業調整法のトマス附属書は、大統領がマネーサプライを増やそうとするとき連邦準備制度の連邦公開市場委員会に30億ドルまで米国債を買わせることができるようにした。資金は財務省の発行するグリーンバックという政府紙幣であった (greenbacks)。これは金銀比価にルーズな金銀複本位制であった。欧州各国が第一次世界大戦で合衆国に負った債務の一定額を銀貨で弁済する便宜が図られたのである。

1930年代後半には再び危機的な状況となった。多くの労働組合が賃金の切り上げを要求、実質賃金の切り上げ(ワグナー法)は他の大勢の労働者の解雇につながった。1936年、すでにインフレ傾向にあったことを警戒したFRBは金融引き締めに転じ預金準備率を2倍に引き上げた。米国の債務残高はGDP比40%という前代未聞の水準に達したため、ルーズベルト大統領とヘンリー・モーゲンソー財務長官は財政均衡に舵をきった。1936-38年にはGDP比5.5%の財政赤字を解消した。しかしこの1937年の財政支出大幅削減予算により1938年は不況になり、実質GDPは11%下がり失業率は4%上昇し[35]、「ルーズベルト不況」と呼ばれることになる。アメリカのGDPは1936年に恐慌前の水準に回復したものの37年不況により再び34年の水準まで逆戻りして、1941年まで恐慌前の水準に回復することができなかった[36]。ニューディール期間中財政支出赤字の対GNP比が10%を超えた年は2度である。アメリカ経済の本格的な回復はその後の第二次世界大戦参戦による莫大な軍需景気を待つこととなる。太平洋戦争が起こり、連邦政府はようやく見境のない財政支出を開始し、また国民も戦費国債の購入で積極財政を強力に支援した。1943年には赤字が30%を超えたが失業率は41年の9.1%から44年には1.2%に下がった[37]。しかしダウ平均株価は1954年11月まで1929年の水準に戻らなかった。
会計監査

投資家保護のために公開基準と収益性が重視され、1934年証券取引所法が制定されて証券取引委員会 (SEC) が設置された。公認会計士の法的監査が制度化されて、監査の基準となる米国会計基準の制定が決定する。会計原則を制定するために会計手続委員会(英語版) (CAP) が設立され、アメリカ会計士協会(英語版) (AAPA) とアメリカ会計学会が積極的に関与した[38]


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