中国は当時南京国民政府の成立(1928年)当初であり、清朝以来の幣両制を元制に移行させつつある段階であった。中華民国の主要な港湾はすべてイギリスにより支配されており、関税自主権を持たない状況にあった。
中華民国は銀元を用いる最後の銀本位制採用国であった。世界恐慌で銀価格が暴落し輸入商品の価格を騰貴させたが、世界では銀需要国として銀相場が比較的高かったので世界中の銀が中国へ流れ込み(1929年から1931年に3.4億元)さらに物価を上昇させ、農村から経済を破壊してゆき、やがて工業製品も売れなくなっていった[63]。
1931年9月に立て続けに発生した満州事変とイギリスの金本位制度離脱は中華民国の経済にとって負の画期であり、国際交易ではそれまでの銀流入傾向が流出に転じ、物価の下落や商工業・海外貿易の縮小に見舞われた。
ここでアメリカのトマス附属書が影響する。アメリカが銀の法定備蓄を開始すると (Silver Purchase Act of 1934)、国際市場での銀価格は急騰した。中国から大量の銀が流出し、国内金利は高騰した。そして物価が下落したり、銀行が倒産したりした。 ソ連は社会主義国家だったため、主要国の中でただ一国、世界恐慌の影響を全く受けず非常に高い経済成長を続け、1930年にはGDP2523.3億ドルでイギリスを超えて世界第2の経済大国になった[64]。以後、スターリンの推進する五カ年計画で着々と工業化を進めていった。ソビエトのプロパガンダもあり、自由主義諸国の研究者の中には社会主義型の計画経済に希望を見出す者も多く出たが、実際にはホロドモールや食糧の徴発でポーランドに脱出するロシア人の漸次増加が起きていた。極東・シベリア開発には政権により意図的に作り上げられた「にわか囚人」が大量に動員された[65]。 世界各国が大恐慌に苦しむ中、計画経済で経済発展を続けるソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)とヨシフ・スターリン書記長の神格化傾向が進んだ。大恐慌下で救いを求める人々の一部は共産主義に希望的な経済体制を夢見た。特に英国の上流階級で裏切りが続出し、スパイになる人材が輩出されたことは冷戦時代に大きな意味を持った[66]。 年アメリカイギリスフランスドイツ日本ソ連 (1929年=100) [9][要出典] 年アメリカイギリスフランスドイツ日本世界総計 単位:100万ドル、イギリスは連合王国およびアイルランド含む。(出典:League of Nations,Statistical Year Book,1931-2,pp.266-9)[67] 世界恐慌は「基軸通貨交替」「覇権国交替」に伴う当然の、あるいは必然的な事態と考えられる。英仏を中心とする世界体制が第一次世界大戦で崩れ、米国が覇権国になる途中の出来事であった。世界の富を集めた結果として世界的に通貨が必要であったが、金本位制のもとで通貨創造が出来ない各国は米国からの資金還流を待つしかなかった。しかし米国には覇権国の責任を受ける準備が出来ておらず、国際連盟には参加せず、ドイツなどの経済的苦境を放置した。さらに「真正手形原理
ソ連
世界恐慌期の各国工業生産の推移
1928年939491999079
1929年100100100100100100
1930年81921008695131
1931年6884896892161
1932年5484695398183
1933年64887761113198
1934年66997180129238
1935年761066794142293
世界恐慌前後の各国貨幣用金の分布状況の推移
1925年末4,39981497831657610,244
1926年末4,49284597846456210,496
1927年末4,37984297747154210,602
1928年末4,1418361,27167654111,052
1929年末4,2847911,64156954211,272
1930年末4,5937922,09955241211,756
1931年6月4,9568652,21235942412,078
社会科学における解釈とその影響詳細は「世界恐慌の原因」を参照
政治経済学
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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