世界大恐慌
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それでも記録的なものとなり、フーバー政権の1930会計年度の歳出予算は対GDP比3.4%程度だったが、1934年にルーズベルト政権は10.7%まで引き上げた[34][35]

農業調整法のトマス附属書は、大統領がマネーサプライを増やそうとするとき連邦準備制度の連邦公開市場委員会に30億ドルまで米国債を買わせることができるようにした。資金は財務省の発行するグリーンバックという政府紙幣であった (greenbacks)。これは金銀比価にルーズな金銀複本位制であった。欧州各国が第一次世界大戦で合衆国に負った債務の一定額を銀貨で弁済する便宜が図られたのである。

1930年代後半には再び危機的な状況となった。多くの労働組合が賃金の切り上げを要求、実質賃金の切り上げ(ワグナー法)は他の大勢の労働者の解雇につながった。1936年、すでにインフレ傾向にあったことを警戒したFRBは金融引き締めに転じ預金準備率を2倍に引き上げた。米国の債務残高はGDP比40%という前代未聞の水準に達したため、ルーズベルト大統領とヘンリー・モーゲンソー財務長官は財政均衡に舵をきった。1936-38年にはGDP比5.5%の財政赤字を解消した。しかしこの1937年の財政支出大幅削減予算により1938年は不況になり、実質GDPは11%下がり失業率は4%上昇し[35]、「ルーズベルト不況」と呼ばれることになる。アメリカのGDPは1936年に恐慌前の水準に回復したものの37年不況により再び34年の水準まで逆戻りして、1941年まで恐慌前の水準に回復することができなかった[36]。ニューディール期間中財政支出赤字の対GNP比が10%を超えた年は2度である。アメリカ経済の本格的な回復はその後の第二次世界大戦参戦による莫大な軍需景気を待つこととなる。太平洋戦争が起こり、連邦政府はようやく見境のない財政支出を開始し、また国民も戦費国債の購入で積極財政を強力に支援した。1943年には赤字が30%を超えたが失業率は41年の9.1%から44年には1.2%に下がった[37]。しかしダウ平均株価は1954年11月まで1929年の水準に戻らなかった。
会計監査

投資家保護のために公開基準と収益性が重視され、1934年証券取引所法が制定されて証券取引委員会 (SEC) が設置された。公認会計士の法的監査が制度化されて、監査の基準となる米国会計基準の制定が決定する。会計原則を制定するために会計手続委員会(英語版) (CAP) が設立され、アメリカ会計士協会(英語版) (AAPA) とアメリカ会計学会が積極的に関与した[38]

株価暴落の原因として、金融商品の資産の恣意的な再評価があったという分析がなされた。このためにアメリカの会計は資産の再評価が認められず、1970年代まで取得原価基準が採用された[39]

[36]

恐慌の発生以降も各国での通貨問題を解決するための多くの試みがなされたが恒常的な協調体制が構築されたわけではなく、結局外為相場の国際的調整は第二次世界大戦後のIMF設立を巡る議論の中に送り込まれることとなった[40]。第一次世界大戦後、世界恐慌まで続いていた軍縮と国際平和協調の路線は一気に崩れ、第二次世界大戦への大きな一歩を踏み出すこととなった。
世界経済への波及
イギリス

世界恐慌のあおりでシティ・オブ・ロンドンの債権は焦げついた。即座に短資が逃げ、イングランド銀行には兌換のため人が殺到した。ここで2つの報告書が提出され、ポンドの安定とシティの権威を揺さぶったのである。報告書の一つをマクミラン報告という。1929年、金融産業委員会(通称マクミラン委員会)が設置された。スコットランド出身の元裁判官であるマクミラン卿 (Hugh Macmillan) が座長となり、英国の経済実態を精査して、ジョン・メイナード・ケインズを主筆に報告書を作成した。マクミラン報告は、シティの資本がイギリス国内の産業に振り向けられず海外投資へ傾いていたことを糾弾した。もう一つをメイ報告書という。1931年2月にメイ委員会が設置された。保険業界の重鎮であったジョージ・メイ (George May) が座長となり、財政収支展望と歳出削減案を提示することになったのである。作成されたメイ報告書が「抜本的な」歳出削減案の必要性を唱えた。世界の投資家と内外の世論が報告書に解釈を与えた。ポンドは国内へ投下されないから、この価格を伝統的なデフレ政策で支えても財政赤字を免れないというのである。金本位制の瓦解は時間の問題となり、空前の金流出が起こった[41]

労働党マクドナルド内閣失業保険の削減など緊縮財政を敷くがその政策から労働党を除名され、代わりに保守党自由党の援助を受けてマクドナルド挙国一致内閣を組閣する。それとほぼ同時期の1931年9月21日、ポンドと金の兌換を停止、いわゆる金本位制の放棄を行った。なおイギリスが金本位制の放棄を行ったのをきっかけに金本位制を放棄する国が続出、1937年6月にフランスが放棄したのを最後に国際的な信用秩序としての金本位制は停止した。

勢力にかなりの蔭りが出ていたイギリスでは広大な植民地を維持していくことができずウェストミンスター憲章により自治領と対等な関係を持ち、新たにイギリス連邦を形成した。イギリスはこれを母体にブロック経済政策を推進していくことになる。ただしインド帝国はブロック経済下でも東アジアと密接な経済関係にあったことが知られる。
イタリア

イタリアは元々第一次世界大戦直後から経済混乱に陥りミラノ株式取引所も不振が続いていたため、逆に世界恐慌の影響はほとんど受けず、多くのイタリア人は株価大暴落の知らせを聞いても、「ああそうか」というだけで今までどおり暮らしていたと言う[42]

1861年に統一されたばかりのイタリアは第一次世界大戦で領土を獲得できると期待していたが徒労に終わった。イタリアでは共産主義と国粋主義の対立が長引いていたが、ムッソリーニの組閣によりファシスト党の一党独裁が始まって以降、イタリアでは共産主義者の大半は国外に逃亡し、ストライキによる鉄道の遅延は解消された。


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