1929年のウォール街の暴落は米国経済に大きな打撃を与えた。しかし当時は株式市場の役割が小さかったために被害の多くはアメリカ国内にとどまっており、当時の米国経済は循環的不況に耐えてきた実績もあった。不況が世界恐慌に繋がったのは、その後銀行倒産の連続による金融システムの停止に、連邦準備制度理事会 (FRB) の金融政策の誤りが重なったためであった。(中略)暴落の後、米国には金が流入していたが、FRBはこれを不胎化させ、国内のマネーサプライの増大とは結び付けようとしなかった。これにより米国では金が流入しているにもかかわらずマネーサプライが減少し続けた。その為金本位制をとる各国は金の流出を抑えるために金利を引き上げざるを得なかった。こうした国々はマネーサプライを増やすことができずに次々と不況に陥った。特に金本位制を取っていたドイツやオーストリアや東欧諸国は十分な金準備を持たず、また第一次世界大戦とその後のインフレにより金融システムが極めて脆弱な状態であった。そのため、米国やフランスへの金流出により金準備が底をついてしまい、金融危機が発生した。
当時の米国大統領、ハーバート・フーヴァーの「株価暴落は経済のしっぽであり、ファンダメンタルズが健全で生産活動がしっかり行われている(ので大丈夫)」という発言は、一定程度真実であったが時遅く救いにはならなかった[注釈 10]。 共和党のフーヴァー大統領は古典派経済学の信奉者であり、国内経済において自由放任政策や財政均衡政策を採った。その一方で1930年にはスムート・ホーリー法を定めて保護貿易政策を採り、世界各国の恐慌を悪化させた。1931年、クレディタンシュタルトの倒産を受けて6月からフーヴァーモラトリアムを施行した。合衆国内の銀行は9月に305行が、10月に522行が閉鎖した。9月中旬から10月末にかけてヨーロッパへ金が流出したが、連邦準備制度から出ていった金は総額7億5500万ドル相当であった。この年の純輸出5億ドル超を差し引いての結果であった。流出を防ぐために連邦準備制度は公定歩合を10月9日に1.5%から2.5%に、16日には3.5%に引き上げた。 1932年3月にペコラ委員会が発足し、やがてジャック・モルガンのインサイダー取引を暴いた。同年後半から1933年春にかけてが恐慌の底辺であり1933年の名目GDPは1919年から45%減少し、株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落[27]、1200万人に達する失業者を生み出し[28]、失業率は25%に達した[29]。閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止した[30][28]。家を失い木切れで作った掘っ立て集落は恨みを込めて「フーバー村」と呼ばれ、路上生活者のかぶる新聞は「フーバー毛布」と言われた[31]。景気が底を打って、クローズド・エンド型もとい財閥の投信会社は、電力・ガス事業から資本を引揚げ、その保有銘柄を一般産業に分散し、結果として保有銘柄数を増やした[15]。 連邦準備制度の成立から、中央準備市銀行のバンカーズ・バランスは対預金総額比を下げ続けていたが、横ばいとなる1920年代でも3割を維持した。1920年代に不動産抵当貸付を積極的に行った地方銀行と準備市銀行は、1933年2月取り付けに応じるためニューヨークのコルレス銀行から銀行間預金を大量に引き出した。ニューヨーク市銀行は一般の預金者による預金払い戻しに加えて、銀行間の引き出しも被ったのである。この金融システムに沿って、不動産抵当貸付を焦げつかせた銀行からニューヨークへ倒産が連鎖した。貯蓄貸付組合が保有する資産は流動性が低かったので、組合は商業銀行からのコールマネーで補っていた。1929年後半と1930年代初め、商業銀行は組合への短資供与を断るようになった。むしろ組合から貸しはがそうとした。組合はどんどん倒産した。相互貯蓄銀行は銀行間預金をあてにしなかったので小規模な倒産にとどまった。連邦住宅貸付銀行が設立されても不動産市場の崩壊は止まらなかった。そこで住宅所有者貸付公社 (Home Owners' Loan Corporation 1932年10月、ハワーデン (Hawarden, Iowa
アメリカの経済政策世界恐慌初期の取り付け騒ぎ時にニューヨークのアメリカ連合銀行に集まった群衆「アメリカ合衆国の経済史#世界恐慌: 1929年-1941年」も参照
古典派経済学とペコラ委員会
住宅所有者貸付公社
各地のスタンプ貨幣
1933年2月18日、アラバマ出身のバンクヘッド上院議員 (John H. Bankhead II) は、緊急のとき連邦政府も代用通貨の発行を認める法案を提出した。4日後インディアナ州の下院議員ピーテンヒル (Petenhill) も提出した。