世界大恐慌
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これらの需要は1927年にピークを迎えたが、1924年以降流入した投資資金によって株価は上昇を続け、ダウ平均株価は1924-29年の5年間で5倍に高騰した[14]

この時期の投機熱を象徴するものの一つに、中小投資家の増加がある。複数の小規模資金をまとめて大口化できる投資信託という仕組みは、それまでよりも広い層の人々を投資の世界に呼び込んだ[15]

また、1920年代半ばの、フロリダの不動産バブルもその一つである。気候の良いリゾート地であるフロリダの地価上昇に伴い、人が住むには適さない土地までが取引され、さらに値上がりは続いていった。なお、この土地バブルは1926年のハリケーン上陸で崩壊したが、ニューヨークの株価に与えた影響は限定的だった[16]
アメリカとヨーロッパとの関係

第一次世界大戦を通して、アメリカは連合国に多額の貸付を行い、貿易額の黒字も相まって、純債務国から純債権国に転じていた[17]。また、1920年代もアメリカはヨーロッパへの投資を拡大しており、主要な資金提供国となっていた[18]。1927年、合衆国での新外国普通株発行額はおよそ183億ドルであったが、翌年688億ドルに跳ねあがっている[19]。しかし、アメリカのバブルによる国内利回りの上昇の影響により、資本流出は減少し、新外国普通株の発行額は1929年には50億ドル強に落ち込んでしまう[18][19]

なお、1927年ジュネーブで行われた世界経済会議では[20]、恐慌に備えて商業・工業・農業に関する多くの決議が審議・採択されている。商業では関税引き下げ、工業ではコストダウン目的の産業国有化、独占禁止と生産調整の国際協定、農業では方法の改良と資金の貸付について議論された。しかし、決議そのものは各国議会から無視されてしまっていた。
1929年10月

1929年6月からヤング案成立に向けてハーグで国際会議がスタートした。

1929年7月30日の報道によると、ニコライ2世の親族らが、保有する財産600万ドルを返還させるためにアメリカ中の銀行を訴える構えだという。他にもロシア貴族について何人もの遺族たちが、総額で1億ドルほどを保有し、返還を請求しているという見出しであった。記事によると請求されている資産のうち、およそ500万ドルがギャランティ・トラスト・カンパニーに、また100万ドルがナショナル・シティー銀行に、ロシア革命のときから不法に預けられているものである[21]

1929年8月9日、連邦準備制度公定歩合(政策金利)を6%に引き上げた。同年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。市場はこの時から調整局面を迎え、続く1か月間で17%下落したのち、次の1週間で下落分の半分強ほど持ち直し、その直後にまた上昇分が下落するという神経質な動きを見せた。それでも投機熱は収まらず、のちにジョセフ・P・ケネディは、ウォール街の有名な靴磨きの少年が、投資を薦めたことから不況に入る日は近いと予測し、暴落前に株式投資から手を引いたと述べた[注釈 1]

1929年9月26日、イングランド銀行が金利を引き上げ、アメリカの資金がイギリスへ流れた。ニューヨークウォール街の群衆

そのような状況の下1929年10月24日(木曜日)10時25分、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した。下落直後の寄り付きは平穏だったが、間もなく売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落した。この日だけで1289万4650株が売りに出た。ウォール街周囲は不穏な空気に包まれ、400名の警官隊が出動して警戒にあたらなければならなかった。

シカゴバッファローの市場は閉鎖され、投機業者で自殺した者はこの日だけで11人に及んだ。この日は木曜日だったため、後にこの日は「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と呼ばれた。翌25日(金曜日)の13時、ウォール街の大手株仲買人と銀行家たちが協議し、買い支えを行うことで合意した。このニュースでその日の相場は平静を取り戻したが、効果は一時的なものだった。

週末に全米の新聞が暴落を大々的に報じたこともあり、28日には921万2800株の出来高でダウ平均が1日で13%下がるという暴落が起こり、さらに10月29日、24日以上の大暴落が発生した。この日は取引開始直後から急落を起こした。最初の30分間で325万9800株が売られ、午後の取引開始早々には市場を閉鎖する事態となった。当日の出来高は1638万3700株に達し[注釈 2]、株価は平均43ポイント[注釈 3]下がり、9月の約半分になった。1日で時価総額140億ドルが消し飛び、週間では300億ドルが失われた計算になった[注釈 4]

10月29日(火曜日)は後に「悲劇の火曜日 (英語: Tragedy Tuesday)」と呼ばれた。投資家はパニックに陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始めた。1928年アメリカ市場の投信株の取引高は1万株しかなかったが、翌年に11万株を超えた[15]。そして、アメリカ合衆国の経済への依存を深めていた脆弱な各国経済も、連鎖的に破綻することになる。

過剰生産による、アメリカ工業セクターの設備投資縮小に始まった不況に金融恐慌が拍車をかけ、強烈な景気後退が引き起こされた。産業革命以後、工業国では10年に1度のペースで恐慌が発生していた。しかし1930年代における世界恐慌は規模と影響範囲が絶大で、自律的な回復の目処が立たないほど困難であった。
証券パニックから世界恐慌へ

1930年9月、国際連盟金委員会による報告書が公表された。


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