紀元前2700年頃までに、シュメールという民族がウル、ウルクなどの都市国家を形成し、神権政治を行った。また、楔形文字とよばれる文字も発明された。
しかし、セム語派のアッカドが彼らを征服しメソポタミアを統一した。アッカドの王ナラム・シンは「四方世界の王」と称し、この言葉は「四天王」の語源となった。そして、時は進み今度はセム語系のアムル人が古バビロニア(バビロン第1王朝)を建て、バビロン第一王朝のハンムラビは「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラビ法典をつくった。
その後、その頃には珍しい鉄製の武器をはやくから使用していたインド・ヨーロッパ語族のヒッタイトが彼らを滅ぼし、アナトリア半島(現在のトルコ付近)に国家を建国した。また、バビロン第一王朝滅亡後のバビロニアにはカッシート人、その北にはミタンニ、そして後述のエジプト新王国も含めて諸王国が並立する複雑な政治状況が生じ、しばらく続いた。
この時代の過程で、太陰暦が誕生し、これに修正を加えた太陰太陽暦も誕生し、天文、数学など様々な学問が発達した。
エジプト文明が望まれています。
エジプト文明はナイル川を中心として発展した文明である。エジプト文明は、エジプト古王国、エジプト中王国、エジプト新王国、の3つの時代に分けられる。
エジプトでは、国家統一以前にノモスと呼ばれる地域の政治的まとまり(領土国家、領域国家)が複数存在した。
エジプトではメソポタミアよりもはやく統一国家が成立した。紀元前3000年にメネスがエジプトを統一し、古王国では、王はファラオと呼ばれた。また、ギーザにはピラミッドも誕生した。
中王国時代にはセム語系の戦士集団、ヒクソスがシリアから侵入し、国内は一時混乱したが、新王国が起こって彼らを追放し、「エジプトのナポレオン」とも呼ばれるトトメス3世は、シリアとヌビアを征服したが、次第に衰退しアッシリアやアケメネス朝の侵入を受けて滅亡した。
新王国時代には、ツタンカーメンが存在した。また、神聖文字(ヒエログリフ)を使用し、太陽暦が誕生した。
インダス文明が望まれています。
インダス文明とは、インダス川流域で発展した文明のことであり、位置はインドよりも、どちらかと言えばパキスタン寄りである。
インダス文明はドラヴィダ人によって作られたとされる、インド最古の文明で、遺跡としては、モヘンジョダロ、ハラッパーなどがある。インダス文字が作られたが、いまだ解読されていない。
また、この頃のインダス文明では、強大な権力を示す、神殿や王宮が発見されていない。
やがて、滅亡し、インド=ヨーロッパ語族のアーリヤ人が侵入し、パンジャーブに住み着いた。その後、ガンジス川に進出し、その後、今のカーストと呼ばれる身分制につながるヴァルナ制やジャーティも誕生した。また、これらの制度を否定して、仏陀(釈迦)が仏教を、マハーヴィーラがジャイナ教を開いた。
中国文明が望まれています。
遼河文明からは大規模な竪穴建物や墳墓、祭壇などの神殿が発見されている[5]。興隆窪文化の遺跡からは中国最古の龍を刻んだヒスイなどの玉製品が発見されている。また最古の遼寧式銅剣(琵琶形銅剣)や櫛目文土器などが出土している。
黄河文明では黄河の氾濫原で農業を開始し、やがて黄河の治水や灌漑を通じて政治権力の強化や都市の発達などを成し遂げていった。後の漢民族拡散の中心となる文明である[3][4]。
長江文明は稲作の発祥となる文明である。初期段階より稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。
ユーラシアの交流圏が望まれています。
アジア諸帝国の繁栄が望まれています。