当時、作詞者ホフマン・フォン・ファラースレーベンは反体制的な詩集を発行したということで、教鞭をとっていた大学から追放されて各地を放浪していた。その頃まだ英国領だったヘルゴラント島へ向かう船に、偶然フランスと英国の軍楽隊が同乗し、英国国歌『女王陛下万歳』(God Save the Queen)とフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』(La Marseillaise)を演奏していた。当時ドイツという国はなく、「ドイツ連邦」というものがあるだけで、国歌も統一国家もなかったため、彼は大きなショックを受けたという。
そこで、ホフマンはヘルゴラント島での休暇中に、当時は夢物語と言われていたドイツ民族の統一を願ってこの歌詞を作詞し[4]、直後の9月4日にハンブルクの出版社フリードリヒ・カンペが初版を出版した。この時、メロディーはハイドン作曲『Gott erhalte Franz den Kaiser(神よ、皇帝フランツを守りたまえ)』を借用した[1]。1番における「世界の全てのものをこえるドイツの国よ!(Deutschland über alles in der Welt)」という言葉には、元々ホフマンのドイツ民族の統一を悲願する意味が込められていたと言われている。 この歌が初めて公開の場にて演奏されたのは、1841年10月5日のハンブルクで行われた松明行列に際してであり、公式の席で初めて歌われたのは、1890年にヘルゴラント島がヘルゴラント=ザンジバル条約によりドイツ領となった時であった。しかし、当時はまだ国歌となるまでには至らず、1871年のドイツ帝国成立時にはそれまで広く知れ渡っていた『ラインの守り』に代えて『皇帝陛下万歳』を非公式ながら国歌とし、1918年の帝政崩壊まで使用した[1]。 一方、この当時から既に1番の歌詞が行き過ぎであるとの批判が絶えなかった。これは、ドイツ帝国の時代でも、マース川流域は大半がフランスないしベルギー国内であり、エチュ川はオーストリア=ハンガリー帝国とイタリア王国を流れ、ベルト海峡はデンマークにあったことが理由である[1]。 第一次世界大戦後、ワイマール共和国時代の1922年8月11日、社会民主党政権が正式な国歌として制定した。この時点では「国歌」という名称は使用されなかった[1]。これに対してフリードリヒ・エーベルト大統領は式典の挨拶で以下のように述べた[1]。「統一と正義と自由! ここで謳われているこの三つの言葉は、ドイツ内部の分裂と抑圧の時代に、ドイツ人全ての抱く切なる希望を表したものである。これらの言葉は、今後もより良き未来の構築に向け、困難な道のりを歩む我らの座右の銘となろう。」 また、ワイマール共和国時代には、一時期4番が作られたが、すぐに人々から忘れ去られた[1]。 その後、アドルフ・ヒトラーが政権を掌握してから僅か数週間後に、ナチス指導部はこの国歌をナチスの党歌『旗を高く掲げよ』と組み合わせ、2番と3番を演奏禁止にした上で、「最初に国歌1番を歌い、次に『旗を高く掲げよ』を歌う」を公式とし、ナチス・ドイツ時代ではこの2つの歌を連続して歌うことが実質的な国歌とされた[1]。この時、ナチスが1番をドイツ人の優越や領土拡大を目指した解釈に変更したため、第二次世界大戦後は、「歌詞が軍国主義的である[2]」「歌詞がナチス・ドイツの覇権を正当化するもので、覇権主義の野望が盛り込まれている」「戦後ドイツの領土ではなくなった地名が含まれており、外国を刺激する[3]」という批判を受ける原因になった。 第二次世界大戦後、連合国を始め他国の人々からは、『ドイツの歌』はナチスの狂信的人種差別と世界制覇の野望を強烈に表す象徴と見られており、連合軍は『ドイツの歌』を禁止にして処罰の対象とした。しかし、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1948年にヴォルフスブルクでドイツ帝国党
ドイツ帝国時代まで
ワイマール共和国からナチス・ドイツまで
冷戦以降