1900年(明治33年)、『明星』を創刊した。北原白秋、吉井勇、石川啄木などを見い出し、ロマン主義運動の中心的な役割を果たした。しかし、当時無名の若手歌人であった鳳晶子(のち鉄幹夫人)との不倫が問題視される。文壇照魔鏡[7] なる怪文書で様々な誹謗中傷が仕立て上げられたが、晶子の類いまれな才能を見ぬいた鉄幹は、晶子の歌集『みだれ髪』作成をプロデュースし、妻・滝野と離別[8]滝野はのちに正富汪洋と再婚した。1901年(明治34年)晶子と再婚し六男六女の子宝に恵まれた[9]。
1901年(明治34年)8月、『みだれ髪』刊行。その名声は高く、『明星』における指標となる。同時に『明星』の隆盛のきっかけともなった。1907年(明治40年)には『明星』の新進詩人たちである太田正雄(木下杢太郎)、北原白秋、平野万里、吉井勇を連れて九州を旅行し、その紀行文『五足の靴』を発表。明治末期から大正初期の文壇に南蛮趣味を流行させた。後進にも恵まれ好調に見えた『明星』であるが、杢太郎・白秋・勇らが脱退し、1908年(明治41年)、『明星』は第100号をもって廃刊する[注釈 2]。
その後の鉄幹は極度の不振に陥るが、1910年(明治43年)には歌集『相聞』、詩歌集『?之葉』[11]を出版。『?之葉』の中には「小曲」と題した世界で最初の五行詩集も含まれる。[12]1911年(明治44年)、晶子の計らいでパリへ行く。のち晶子も渡仏、フランス国内からロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪する。だが創作活動が盛んとなったのは晶子の方で、鉄幹は依然不振を極めていた。再起を賭けた労作、訳詞集『リラの花』も失敗するなど、栄光に包まれる妻の陰で苦悩に喘いだ。[13][14][15]
1915年(大正4年)の第12回総選挙に故郷の京都府郡部選挙区から無所属で出馬したが、落選した。大正8年(1919年)に慶應義塾大学文学部教授に就任、昭和7年(1932年)まで在任し、水上滝太郎、佐藤春夫、堀口大学、三木露風、小島政二郎らを育てた。1921年(大正10年)に建築家・西村伊作、画家・石井柏亭そして妻・晶子らとともにお茶の水駿河台に文化学院を創設。同じ頃、第二次『明星』を創刊し、「日本語原考」などを発表する。しかし1922年(大正11年)の森?外の死は、鉄幹にとって有力な庇護者を失うに等しい打撃であった。
1927年(昭和2年)に『明星』が再び廃刊となるが、1930年(昭和5年)に雑誌『冬柏』を創刊。1932年(昭和7年)、第一次上海事変に取材した「爆弾三勇士の歌」の毎日新聞による歌詞公募に応じ、一等入選を果たした。
1935年(昭和10年)、気管支カタルがもとで慶應義塾大学病院で死去。晶子は「筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我れを愛できと」という悲痛な追悼の歌を捧げた。墓所は多磨霊園。戒名は冬柏院雋雅清節大居士[16]。