与謝野家
義父・礼厳(1823年10月 - 1898年8月。僧侶、歌人)
夫・鉄幹(1873年2月 - 1935年3月。歌人)
長男・光(1902年11月[26] - 1992年4月[28]。医師。東京都衛生局長・東京医科大学理事など歴任)
次男・秀(1904年7月[26] - 1971年1月。外交官)
秀は外交官としてイタリア・エジプト大使などを歴任し、1964年東京オリンピック事務長を務めた。
次男の妻・道子(1915年6月 - 2000年10月。評論家、随筆家)
長女・八峰(1907年3月[26] - 1992年5月[28])
次女・七瀬(1907年3月[26] - ?。八峰と双子)
三男・麟(1909年3月[26] - 1964年5月[28])
三女・佐保子(1910年2月[26] - ?)
四女・宇智子(1911年2月[26] - 2005年1月[28])
四男・アウギュスト(1913年4月[26] - 1985年5月[28]。後にc(いく)と改名。機械技術者。日本電気株式会社宇宙開発本部長代理)
五女・エレンヌ(1915年3月[26] - 1991年10月[28])
五男・健(1916年3月[26] - 1991年5月[28]。住友金属工業株式会社副社長)
六男・寸(1917年10月[26]。生後2日で死亡)
六女・藤子(1919年3月[26] - 2012年4月[28])
孫・馨(1938年8月 - 2017年5月。政治家)
孫・達(1941年[29] - 。金融家)
孫・文子(1947年5月 - 。詩人、美術評論家)
孫・久(1946年 - 。建築家)
曾孫・信(1975年6月[30] - 。外資系社員)
晶子と子どもたち
晶子は生涯に出産を11回経験している。双子児は2回で、一組は育ちもう一組は1人が死産だった[31]。1911年(明治44年)に本になった第一評論集「一隅より」の「産屋物語」の中では、お産の苦しみを「盲腸の六倍ですからね」「死刑前五分間」と言いながらも、だからこそ子どもが可愛いと晶子は訴えている。1912年(明治45年)5月、晶子は寛を追ってパリに向かう。渡欧先から二人は子どもたちに宛て、電車のきっぷや絵の具、飛行機をお土産に買って帰ることなどを書いたはがきをたくさん送っている[32]。パリに滞在しながらドイツ、オーストリアなどに旅に出ていたが、日本に残してきた子どもたちへの思いが嵩じ、さらに妊娠して体の変調もあったため9月に帰国の途につく[33]。