与謝野晶子
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四女・宇智子(1911年2月[26] - 2005年1月[28]

四男・アウギュスト(1913年4月[26] - 1985年5月[28]。後にc(いく)と改名。機械技術者。日本電気株式会社宇宙開発本部長代理)

五女・エレンヌ(1915年3月[26] - 1991年10月[28]

五男・健(1916年3月[26] - 1991年5月[28]。住友金属工業株式会社副社長)

六男・寸(1917年10月[26]。生後2日で死亡)

六女・藤子(1919年3月[26] - 2012年4月[28]

孫・1938年8月 - 2017年5月政治家

孫・1941年[29] - 。金融家

孫・文子1947年5月 - 。詩人美術評論家

孫・1946年 - 。建築家

曾孫・信(1975年6月[30] - 。外資系社員)

晶子と子どもたち

晶子は生涯に出産を11回経験している。双子児は2回で、一組は育ちもう一組は1人が死産だった[31]。1911年(明治44年)に本になった第一評論集「一隅より」の「産屋物語」の中では、お産の苦しみを「盲腸の六倍ですからね」「死刑前五分間」と言いながらも、だからこそ子どもが可愛いと晶子は訴えている。1912年(明治45年)5月、晶子は寛を追ってパリに向かう。渡欧先から二人は子どもたちに宛て、電車のきっぷや絵の具、飛行機をお土産に買って帰ることなどを書いたはがきをたくさん送っている[32]。パリに滞在しながらドイツ、オーストリアなどに旅に出ていたが、日本に残してきた子どもたちへの思いが嵩じ、さらに妊娠して体の変調もあったため9月に帰国の途につく[33]。『明星』が廃刊になるなど、経済的に厳しい時でも、裁縫でも料理でも一流の腕前だった晶子は、お金をかけない料理の工夫をした。また彼岸おはぎ月見団子などを手作りするなど、季節の味や行事も大切に暮らした[34]。赤ん坊をおんぶしながら、台所で煮物をしながら、なんでもそばにある鉛筆やペンなどで心覚えを書きとめておいた。そのノートに娘たちはいたずら書きをし、男の子は汽車や電車の絵を書いてしまうが、それでもめげすに歌を詠み書き物をして一家を支えた[35]。長男の光は回顧録『晶子と寛の想い出』で「僕が学校へ上がるまでっていうのはほんとうに貧乏でしたから、玩具は買ってもらえなかったけど、夜、寝しなに、母が枕元でお話をしてくれましてね。」と語っている。晶子の教育観は、どちらかというと放任主義だったが、子どもたちを私立に通わせるなど、良い教育が受けられるように心を砕いた。たくさんの子どもたちとの生活の様子は、次男の嫁・道子が記した『どっきり花嫁の記』や、長男の嫁になった廸子の『想い出』に綴られている[36]

与謝野家子どもたちの名前

生まれた子どもたちの名付け親には著名人が名を連ねている[37]。 長男の光は詩人で翻訳家の上田敏。 二男の秀は詩人の薄田泣菫。 双子の長女八峰、二女七瀬は作家の森鴎外。 鴎外は双子の名を詠みこんだ祝歌も作っている。

四男のアウギュストはパリを訪れたとき、彫刻家のアウギュスト・ロダンに会えたことを記念につけられたがのちにcと改名。五女のエレンヌは改名が難しかったので呼び名を「幸子」と変えている[38]
著作・文献
自著

定本 与謝野晶子全集 全20巻(
講談社、1979年 - 1981年)

鉄幹晶子全集 全32巻(勉誠出版、2001年 - 2011年)。本文篇 31巻+最終巻は全歌集五句索引篇

鉄幹晶子全集 別巻 全8巻(拾遺篇 短歌、勉誠出版、2013年 - 2021年)。逸見久美ほか編

鳳晶子「みだれ髪」 名著複刻全集22・日本近代文学館

みだれ髪(ほるぷ出版、1984年)。日本の文学7巻、市古貞次小田切進

みだれ髪新潮文庫)、他にハルキ文庫

みだれ髪 附=みだれ髪拾遺(今野寿美訳注、新版・角川文庫)


全訳源氏物語 上・中・下(角川文庫クラシックス)

大活字版『ザ・源氏物語』全文対訳(第三書館


梗概源氏物語(武蔵野書院)鶴見大学文学部、池田利夫

与謝野晶子訳 蜻蛉日記(平凡社ライブラリー

紫式部日記・和泉式部日記(角川ソフィア文庫) 

与謝野晶子歌集(岩波文庫

与謝野晶子評論集(岩波文庫)

愛、理性及び勇気(講談社文芸文庫 現代日本のエッセイ)


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