与謝野晶子
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長男・光(1902年11月[26] - 1992年4月[28]。医師。東京都衛生局長・東京医科大学理事など歴任)

次男・1904年7月[26] - 1971年1月外交官
秀は外交官としてイタリアエジプト大使などを歴任し、1964年東京オリンピック事務長を務めた。

次男の妻・道子1915年6月 - 2000年10月。評論家随筆家

長女・八峰(1907年3月[26] - 1992年5月[28]

次女・七瀬(1907年3月[26] - ?。八峰と双子) 

三男・麟(1909年3月[26] - 1964年5月[28]

三女・佐保子(1910年2月[26] - ?)

四女・宇智子(1911年2月[26] - 2005年1月[28]

四男・アウギュスト(1913年4月[26] - 1985年5月[28]。後にc(いく)と改名。機械技術者。日本電気株式会社宇宙開発本部長代理)

五女・エレンヌ(1915年3月[26] - 1991年10月[28]

五男・健(1916年3月[26] - 1991年5月[28]。住友金属工業株式会社副社長)

六男・寸(1917年10月[26]。生後2日で死亡)

六女・藤子(1919年3月[26] - 2012年4月[28]

孫・1938年8月 - 2017年5月政治家

孫・1941年[29] - 。金融家

孫・文子1947年5月 - 。詩人美術評論家

孫・1946年 - 。建築家

曾孫・信(1975年6月[30] - 。外資系社員)

晶子と子どもたち

晶子は生涯に出産を11回経験している。双子児は2回で、一組は育ちもう一組は1人が死産だった[31]。1911年(明治44年)に本になった第一評論集「一隅より」の「産屋物語」の中では、お産の苦しみを「盲腸の六倍ですからね」「死刑前五分間」と言いながらも、だからこそ子どもが可愛いと晶子は訴えている。1912年(明治45年)5月、晶子は寛を追ってパリに向かう。渡欧先から二人は子どもたちに宛て、電車のきっぷや絵の具、飛行機をお土産に買って帰ることなどを書いたはがきをたくさん送っている[32]。パリに滞在しながらドイツ、オーストリアなどに旅に出ていたが、日本に残してきた子どもたちへの思いが嵩じ、さらに妊娠して体の変調もあったため9月に帰国の途につく[33]。『明星』が廃刊になるなど、経済的に厳しい時でも、裁縫でも料理でも一流の腕前だった晶子は、お金をかけない料理の工夫をした。また彼岸おはぎ月見団子などを手作りするなど、季節の味や行事も大切に暮らした[34]。赤ん坊をおんぶしながら、台所で煮物をしながら、なんでもそばにある鉛筆やペンなどで心覚えを書きとめておいた。そのノートに娘たちはいたずら書きをし、男の子は汽車や電車の絵を書いてしまうが、それでもめげすに歌を詠み書き物をして一家を支えた[35]。長男の光は回顧録『晶子と寛の想い出』で「僕が学校へ上がるまでっていうのはほんとうに貧乏でしたから、玩具は買ってもらえなかったけど、夜、寝しなに、母が枕元でお話をしてくれましてね。」と語っている。晶子の教育観は、どちらかというと放任主義だったが、子どもたちを私立に通わせるなど、良い教育が受けられるように心を砕いた。たくさんの子どもたちとの生活の様子は、次男の嫁・道子が記した『どっきり花嫁の記』や、長男の嫁になった廸子の『想い出』に綴られている[36]

与謝野家子どもたちの名前

生まれた子どもたちの名付け親には著名人が名を連ねている[37]


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