与謝野晶子
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^ 『柵草紙』とその後継誌『めざまし草』は、いずれも森鴎外を中心にした同人誌。
^ うち1人は生後2日で亡くなる。
^ 鴎外の紹介により、三越の事実上のオーナーである日比翁助から洋行費の補助として千円が贈与された[4]
^ 出発に際して平塚らいてうなど総勢500余名が見送ったという。
^ その中で鴎外は、「僕が特に言わなくてはならない事は無いだらう。併し樋口一葉さんが亡くなってから、女流のすぐれた人を推すとなると、どうしても此人であらう。晶子さんは何事にも人真似しない。個人性がいつも確かに認められる。(中略)序だが、晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ。(下略)」と評した。ちなみに、与謝野鉄幹とも親交があった鴎外は、晶子が産んだ双子(七瀬、八峰)の名づけ親になっており、当時、母を亡くして落胆していた晶子に「婿きませひとりは山の八峰越えひとりは川の七瀬わたりて」という歌を送った[5]
^ 1930年に女学部長就任[6]
^ 日露戦争当時は満州事変後の昭和の戦争の時期ほど言論弾圧が厳しかったわけではなく、白鳥省吾木下尚江中里介山大塚楠緒子らにも戦争を嘆く詩を垣間見ることができる。
^ 入江春行によれば、「中国をやっつけろと盛り上がる世論の中で、悲しいと詠む歌は発表できなかったのだろう」という[18]
^ 七瀬はのちに有島武郎の甥と、八峰は孝橋謙二と結婚した。

出典^ a b "与謝野 晶子". 「20世紀日本人名事典」(2004年刊). コトバンクより2022年5月14日閲覧。
^「婦人と文学」宮本百合子。跡取りの男児が望まれていたため、晶子は12歳まで男の子の格好で過ごした。
^ a b 北俊夫 編『郷土の発展につくした先人』偕成社〈しらべよう!47都道府県〉、2021年4月、27-29頁。 
^ 金子(1992)、295頁。
^ 金子(1992)、288-289頁、299頁。
^ “沿革”. ryotokuji.ac.jp. 文化学院. 2022年5月14日閲覧。
^ 神奈川近代文学館『生誕140年与謝野晶子展 こよい逢ふ人みなうつくしき』神奈川近代文学館、2018年3月17日、34頁。 
^ 神奈川近代文学館『生誕140年与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき』神奈川近代文学館、2018年3月17日、62頁。 
^ a b 読売新聞 2015年10月31日 38面掲載。
^ a b 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)353頁
^歴史が眠る多磨霊園: ⇒与謝野晶子
^ “さかい利昌の杜”. 2023年3月3日閲覧。
^ 『みだれ髪』ほるぷ出版、1984年8月1日、258頁。 
^ 幸津國生『「君しにたまふことなかれ」と『きけ わだつみのこえ』・「無言館」』文芸社、2001年12月15日、26,27頁。 
^ a b 『知ってるつもり?!恋愛放浪記』日本テレビ放送網、1993年10月17日、162-165頁。
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