1904年(明治37年)9月、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。大町桂月との間にこの詩をめぐって論議がおこった。1911年(明治44年)には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿した。1912年(明治45年)、晶子は鉄幹の後を追ってフランスのパリに行くことになった。洋行費の工面は、森鴎外が手助けをし[注釈 4]、また『新訳源氏物語』の序文を書いた鴎外がその校正を代わった。同年5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に晶子のパリ行きを取り上げ、翌6日には晶子の出発の様子を報じた[注釈 5]。翌6月の『中央公論』では、晶子の特集が組まれた[注釈 6]。敦賀港から船でロシアのウラジオストク港へ渡りウラジオストク駅からシベリア鉄道に乗りモスクワ経由でパリへ旅立った。その際に詠んだ 「いざ、天の日は我がために金の車をきしらせよ、 颶風の羽は東より いざ、こころよく我を追へ。黄泉の底まで、なきながら、 頼む男を尋ねたる、その昔にもえや劣る。 女の恋のせつなさよ。晶子や物に狂ふらん、 燃ゆる我が火を抱きながら、 天がけりゆく、西へ行く、 巴里の君へ逢ひに行く。与謝野晶子」と書かれた石碑がウラジオストクの極東連邦大学東洋学院の敷地にある。
5月19日、シベリア鉄道経由でパリに到着した晶子は、9月21日にフランスのマルセイユ港から貨客船「平野丸」で帰国の途につくまでの4か月間、イギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れた。また帰国してから2年後、鉄幹との共著『巴里より』で、「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。」と、女性教育の必要性などを説いた。
1921年(大正10年)に建築家の西村伊作と、画家の石井柏亭そして夫の鉄幹らとともにお茶の水駿河台に文化学院を創設する[3]。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させる。晶子は学監として女子教育を実践した[注釈 7][1]。
子だくさんだったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した[7]。来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらっていたという。多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、残した歌は5万首にも及ぶ。『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。
1940年4月、京都の鞍馬山で行われる鉄幹の法要に出席のため関西に行き、旅から帰ってきたのち5月に脳出血で右半身不随になり、1942年(昭和17年)1月4日意識不明になる[8]。同年5月29日、狭心症に尿毒症を併発し、荻窪の自宅で死去[9][10]。享年65(満63歳没)。同年6月1日に青山斎場で彼女の葬儀・告別式が営まれ、高村光太郎が弔辞を読み上げ、堀口大學が挽歌を捧げた。戒名は白桜院鳳翔晶燿大姉[10]。墓は多磨霊園にある[11]。毎年堺市にある覚王寺では命日に、「白桜忌(はくおうき)」という法要がいとなまれている[12]。
業績
作家・歌人窓際でポーズをとる
情熱的な作品が多いと評される歌集『みだれ髪』(1901年)や、日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名である。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。