下野国
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奈良時代から平安時代中期の国勢

延喜式が編纂された平安時代中期、延喜5年(905年)時点の下野国の格式は上国遠国であるが、六国史記紀日本三代実録には准大国、準大国とある[11][12]。国の格式に準じて国司が配置され時勢に応じて増員されたが、下野国では奈良時代に(大目1、少目1)、平安期には(大掾1、少掾1)の増員が令されている[13][14]
六国史に見る下野国

六国史記紀)には古代から平安時代中期にかけての歴史が記されている。下野国下では以下のような出来事があった。

紀元前50年(崇神天皇48年)4月19日 - 崇神天皇が豊城入彦命に東国を治めるよう命令する。この豊城入彦命が下毛野君の始祖となった。〔日本書紀

676年天武天皇5年)5月7日 - 下野国司は以下のように奏上した。「所部の百姓が凶年に遭い、飢えのため子を売ろうとしています。」しかし、朝廷はこれに取り合わなかった。〔日本書紀〕

684年天武天皇13年)11月1日 - 下毛野君ほか52氏が朝臣の姓を賜る。〔日本書紀〕

687年持統天皇元年)3月22日 - 帰化した14人の新羅人が下毛野国に居し、賦田を受けて扶持とし、安んじて生業させた。〔日本書紀〕

689年(持統天皇3年)10月22日 - 直広肆下毛野古麻呂が奴婢600人の解放を奏上し、許可される。〔日本書紀〕

698年文武天皇2年)7月17日 - 下野国と備前国が赤烏を献上する。〔続日本紀

699年(文武天皇3年)3月4日 - 下野国が雌黄を献上する。〔続日本紀〕

713年和銅6年)5月11日 - 下野国ほか相模・常陸・上野・武蔵が輸調するのは元来麻布であるが、今後は?も併せて輸調するよう命じられる。〔続日本紀〕

714年(和銅7年)

1月25日 - 下野国ほか相模、常陸、上野、武蔵が輸布調を始め、輸布したい者にはこれを許可することとする。〔続日本紀〕

10月1日 - 下野国ほか美濃、武蔵、伯耆、播磨、伊予の6国で大風による被害があり、この年の租調が免じられる。〔続日本紀〕


715年霊亀元年)5月30日 - 下野国ほか相模、上総、常陸、上野、武蔵6国の富民1,000戸を陸奥国に移住させる。〔続日本紀〕

716年(霊亀2年)5月16日 - 下野国ほか駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸7国の高麗人1,799人を武蔵国に移し、高麗郡を置く。〔続日本紀〕

719年養老3年)7月13日 - 按察使が新設され、下野国ほか相模、上野の3国は正四位下武蔵国守多治比縣守の管轄下に置かれる。〔続日本紀〕

737年天平9年)4月14日 - 持節大使藤原麻呂から朝廷に報告があった。「陸奥国多賀柵に無事到着し、鎮守府将軍大野東人等と協議し、下野国などの騎兵1,000人を動員して山道および海道を開き、これに畏怖の念を抱いた蝦夷の民衆を懐柔策をもって鎮め、陸奥・出羽各地(玉造柵、新田柵、牡鹿柵、色麻柵、大室駅)まで進み道路整備を行った。今、出羽比羅保許山に駐屯しているが、この先雄勝まで東人は武力制圧すると言っているが、麻呂の考えとしては蝦夷を帰順させて平章したいが、何れとするか勅令を賜りたい。」〔続日本紀〕

749年天平勝宝元年)7月13日 - 諸寺墾田地限が定められ、下野薬師寺奈良法隆寺四天王寺崇福寺新薬師寺、建興寺、筑紫観世音寺などと並んで500町とされた。なお、国分金光明寺は4,000町、大安寺薬師寺興福寺法華寺諸国分金光明寺は寺毎に1,000町、諸国法華寺は寺毎に400町、定額寺は各寺100町とされている。〔続日本紀〕

754年(天平勝宝6年)11月24日 - 薬師寺の僧である行信宇佐神宮の主神である大神多麻呂が呪詛をしたとして下野薬師寺に配流される。〔続日本紀〕

759年天平宝字3年)9月27日 - 下野国ほか坂東8国と北陸道4国の浪人2,000人を雄勝城の柵戸とする。また、下野国ほか坂東7国より送られた軍士の武器が雄勝城および桃生城に貯蔵される。〔続日本紀〕

761年(天平字宝5年)11月17日 - 藤原恵美朝臣朝狩東海道節度使となり、下野国も遠江、駿河、伊豆、相模、武蔵等とともにその所管地域となる。船152隻、兵士15,700人、子弟78人、漕ぎ手7,520人を用いる。うち2,400人は肥前国から、200人は対馬国から徴発する。〔続日本紀〕

764年天平神護元年)

2月15日 - 下野国ほか伊予、隠岐等が飢饉となったのでこれを救う。〔続日本紀〕

3月4日 - 下野国ほか上野、三河、常陸、下総の5国で旱魃となったため、この年の調庸が10分の7から8程度となる。〔続日本紀〕


767年神護景雲元年)6月5日 - 東山道巡察使淡海三船は聡明だが自らの栄達を願い国司等の検察評価を厳しく報告した。下野国司等は不正を行っていたが、三船は前介の弓削薩摩の罪として薩摩を不当に職務に就かせなかった。これにより三船は現職から解任された。昨今、人を検め裁く者が法の文言に拘泥し正しい道理をもって判決していない。これは官吏の道に沿うものではない。今後このようなことがある場合は法をもって裁くこととする。〔続日本紀〕

770年宝亀元年)8月21日 - 称徳天皇の崩御に伴い、宇佐八幡宮神託事件に連座した道鏡が造下野薬師寺別当として下野国に下向する。〔続日本紀〕

771年(宝亀2年)10月27日 - 武蔵国は元来山道に属し、(使節は)直に下野国足利驛に至るところを枉げて上野国邑楽郡から5驛を経て武蔵国に至り、これを返して下野国に向かうため疲労が大きくなる。武蔵国は海道も兼ね東海道は相模国府から4驛にて下総国府に至っており(使節の)往来に便利である。よって、武蔵国を東山道から東海道に改めれば、取れば公(使節)私にわたり便利で人馬も休養できる、と奏上され光仁天皇はこれを許可した。これにより武蔵国は東海道に転属された。〔続日本紀〕

772年(宝亀3年)

4月7日 - 下野国が造薬師寺別当の道鏡が亡くなったことを光仁天皇に伝える。庶人の格式にて葬られた。〔続日本紀〕

10月11日 - 下野国が奏上した。「管内の百姓が陸奥国に逃亡すると、陸奥国は太政官符をもって受け入れています。姦偽の輩は争って課役を避け陸奥国に逃れたものは870人になります。下野国司はこれを禁じていますが止めることが出来ません。使者を遣わして確認させましたが、陸奥国は蝦夷寄りで民情が険悪であり、これを囲って相いに隠し合うため見出すことができません。」太政判官は判定した。「陸奥国司は下野国使とともに検めて、本の郷に還させること。」〔続日本紀〕


773年(宝亀4年)2月6日 - 下野国で火災があり、正倉14宇、穀糒23,400斛が焼失した。〔続日本紀〕

775年(宝亀6年)


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